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力が欲しいか、ならば演じてみよ

僕はといえば、小さい頃から内向的で、外で駆け回りもする一方、部屋で本を読んでいる方が好きな子供でした。たとえば、ボール遊びは好きだけど、大声で怒鳴ったり、怒ってボールを人にぶつけたりする子供のことがとても苦手で、ガキ大将みたいなものが大嫌いでした。

中学校に上がると、周囲は住んでいる地域のガラの悪さがテキメンに現れていて、クラスではいじめは行われていたし、窓ガラスを割って回る不良もいたしで、環境が荒れていました。

そのころ僕はフルコンタクト空手を習っていました。誰に言われずとも走り込み、家のガレージに吊るしたサッドバッグを殴って蹴って鍛錬を積んでいた正義の味方だったのです。いじめの現場を見かけると、急行して止めさせたりしていました。

とはいえ僕は大柄でもなく、怖い見た目でもないので、僕のことを知っている不良は別にして、僕のことをあまり知らない不良とはイザコザが発生したりしました。

そんなとき、「もっと強そうに、怖そうに見えたらいいのになあ」と思ったりもしたものです。

いじめの発生メカニズムや、僕を見ただけで手を引いてくれる不良など、すべては裏にあるパワーのメカニズムで一貫しています。幼少のころからパワーのような概念が好きではなかった僕ですが、環境にもまれ、人間がいればパワーは避けようがないと、だんだん学んでいくのでした。

権力(パワー)概論

今回のお話の軸は、ジェフリー・フェファーの『権力』(Power)という本です。この本については賛成するところ、反対するところ、渋々ながら受け入れざるを得ないところ、ざまざまあるのですが、間違いなく良書と呼べるでしょう。

ガキ大将からスクールカーストから会社のヒエラルキーまで、ありとあらゆるところで権力=パワーは登場します。それを身につけるためには、普通の人がもつ三つの障害物を乗り越えなければなりません。

■ 権力までの三つの障害物を克服する
自分を変えるのは可能だと信じること
・自分を客観的に見つめ、いいところも悪いところも認識すること
・権力を得るのに重要な資質は何かを理解すること

三つもありますが、面白いのは、ひとつめの「自分を変えるのは可能だと信じる」というものです。

人は、肩書きなどで他者より劣ると、その人を飛び越えようとしなくなるそうです。たとえば、有名大学を出なかった人は、一流大学卒の人間を飛び越えて出世しようとはしないんだそうです(一流大卒の後輩をいじめることでストレス発散するのかもしれませんが)。

いじめられっ子は、最初からいじめっ子を撃退することを諦めている。

これはよく覚えがあります。中学生のころ、いじめの仲裁に入って、僕自身が攻撃の対象になってしまった場合がよくありました。僕は喧嘩を受けて立ったのですが、結構な頻度で「やめてくれ」と言われるんですよね。いじめられっ子本人に

俺が我慢すれば収まるのに、なんでお前は余計なことをするんだ、と。

いじめられっ子は、いじめっ子にいじめられる運命を受け入れてしまっているんですね。立ち向かわないし、立ち向かってくれる人が現れたら余計なお世話だと言う。

人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷付けるものである。
(ニコロ・マキャベリ『君主論』)

ヒエラルキーの下層の人間は、現状を変えようとしないのです。それは、幼稚園から会社まで、ほとんど変わらないのです。

出る杭になる

権力を得るためには、出る杭になれとフェファーは言います。なぜって、挑戦することはほとんど無料で、失敗は心が傷つく以外、実害がないからです。

キース・フィッツジェラルド(※1)もレジナルド・ルイス(※2)も、何かを頼んだときに想定しうる最悪の結果は、断られることだと考えている。そして断られたところでどうだというのだ。初めから何も頼まない場合と同じ結果になるだけではないか。頼まなかった場合も、頼んで断られた場合も、どちらも欲しいものは手に入らない。だがダメもとで頼んでみれば、少なくとも可能性は生まれる。(『「権力」を握る人の法則』)

(※1)入社時に、会社トップとの定例食事会の約束を勝ち取った人
(※2)入学申請せずにハーバードロースクールへ入学した人

ああ、こんなメンタリティーが欲しいもんです。失敗してもいままで通りじゃんと言えたらどんなにいいか。でも、経済的にダメージを負わない限り、ほんとうは無傷ですよね。

でも、なんで挑戦して失敗したり断られたりするのが怖いかというと、僕ら人間が基本的には社会の動物だからなんですよね。群れで生きる生き物にとって、他者からの拒絶ほど苦しみを感じるものはない。だから、上でフェファーが言っているのは、損得の意味では正しい反面、心理的には実行が難しいものでもあるんですよね。

けれど、世の中には自信家というのがいて、挑戦したり、人前で堂々とふるまったりするのにためらいがない人もいるんです。そして、そういう人たちが出世していく。

(前略)経営陣は、アマンダの自信に満ちた論調や仕事上の野心を好ましいと感じた。考えてみれば当然である。経営幹部は日頃そのようにふるまっており、アマンダは彼らと同じ姿勢を示したに過ぎないのだから。(『「権力」を握る人の法則』)

「普通の」世界において、こいつ鬱陶しいなというくらいの自信家は、成功者のクラブにおいては、別になんてことはないのかもしれません。だってそこは、自信満々で、成功した人ばかりがいるからです。

自信をもっているというのは、権力を獲得するための方法です。権力がないのなら、まずは自信を持っているフリをすれば、権力が追いついてくる。そうしたら、権力が自信を生む。そういう仕組みのようです。

まだそれほど偉大ではないのに、そんなに謙遜することはない。
(ゴルダ・メイア、イスラエル元首相)

権力という力を呼び寄せる

いずれ欲しいと思っているけれど、いまは権力がなくて困っているというあなたに朗報。ジェフリー・フェファーの説いた三つの方法があれば、そんな逆境も乗り越えられるというのです。

そう。僕たち普通の人間が、周りの人間から、そして他の権力者から、「こいつはパワーがあるな」と思われるには、一定の条件をクリアし続けなければならないのです。

・ 目標に説得力を持たせる
・ すぐに立ち上がる
・ 勝者のようにふるまう

ひとつめは「社会的に望ましい価値と結びついていること」。これは意外でもないですね。

ふたつめは面白くて、酷い目に遭った場合、すぐに回復したフリをしたほうがいいというお話です。

人間の多くは「公正世界仮説」で動いています。つまり、良いことをすれば良いことが返ってきて、悪いことをすれば悪いことが返ってくる。因果応報と考えている人が多いわけです。

そこで、誰かがたまたま凄く酷い目に遭ったとします。そして、長い間落ち込んだり、傷ついているように見えたとします。そうするとどうなるか。

その人は、なんか悪かったり、弱かったりした結果として、そういう酷い目に遭っているんだとみなされるわけです。また、本人も、こんな目に遭うのは自分がダメだからだと思い始めるのです。

打破しましょう。早く立ち上がるのです。

むしろぶっちゃけましょう。周りに、多くの人に、何があったのかを話して、自分は被害者かもしれないが、負けていない、まだ戦っているのだと伝えて回るのです。

これは三つめの「勝者のようにふるまう」や、前項の「自信」とも関連しています。多くの人は強そうな人、堂々としている人を「正しそう」「賢そう」だと思い、「ついて行こう」と考えます。

パワーのための広告戦略

ここで突然脱線しますが、『ドキュメント戦争広告代理店』という本がとてもいいので、ぜひ読んでほしいものです。ちょっと古い本なので、電子版がないようなのが残念ですが。

これは、ユーゴスラビア紛争におけるボスニア側の広告戦略についてまとめた本なんですが、ここに出てくるボスニアの外相ハリス・シライジッチの役者っぷりがすごいのです。(彼は米国の広告代理店のジム・ハーフと組んでいるのですが)。

このシライジッチ外相は、国際会談の現場では大して成果を上げられない一方で、議場から出て、待ち構えるメディアの前に立った瞬間、悔しさと悲しみを堂々と語るのです。それが世界中に放送され、観た人はシライジッチ——つまりボスニアが正しくて、相手側のセルビアが悪いかのように誤解していきます。

この場合、「勝者のようにふるまう」というより「正義のようにふるまう」といった感じでしょうか。シライジッチは腹芸のすえ、セルビア人によるボスニア人迫害・虐殺(「民族浄化」)という虚構をでっちあげ、アメリカ世論を動かし、ついにはNATO軍によるセルビア空爆という結果までもっていったのです。

自分より強いものよりも強そうにふるまうこと(上の場合、「倫理的に強い」)、堂々とふるまうことは、強力な支援を引き出すのです。(もうちょっと複雑なカラクリはありましたが……)。

冒頭で、いじめられっ子はいじめられっ子の立ち位置を変えたがらないと述べました。また、肩書の劣る人は肩書で上の人を越えようとしない、挑戦しようとしないと書きました。

けれど、パワーを得たければ、出る杭になり、堂々と挑戦する必要があるのです。

パワーを得たいときや、正義を自分の側に得たいときは、もうすでに充分パワーがあり、もう充分正しいようにふるまうのです。そう、ポジショニング(位置取り)がすべてです。

成功の80%は、そこにいることで決まる。
(ウディ・アレン)

どこにいるか、どういうポジショニングをしているのかが肝心です。

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