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まるで一振りの日本刀のような【starring F】黛 冬優子

こんにちは、黛冬優子の父です。

(ボコボコにされる音)

こんにちは、たかぎと申します。

アイドルマスターシャイニーカラーズ(通称シャニマス)に先日実装された「【starring F】黛 冬優子」のコミュを読み、ヤバヤバのヤバになりました。

本記事はあくまで一個人の感想です。解釈のひとつとしてお読みいただけましたら幸いです。

願わくば本コミュが少しでも多くの方に読まれますように。

「【starring F】黛 冬優子」はヤバいぞ。

※注意:一連のコミュのネタバレを含みます。

1.冬優子と母親

冬優子の自宅。感嘆する冬優子の母。衝撃の導入。

黛家にPが訪問し、母親と会話をしているという衝撃の幕開け。

談笑するPと冬優子の母。読み進めると今回だけではなく何度も冬優子の仕事について報告をしていることがわかる。

これは推察だが、やや過保護ぎみの冬優子の家族である。冬優子がアイドルを初めたいと打ち明けた際は不安もあっただろう。

そこで、冬優子がアイドルを始める前提として、「定期的にPが冬優子の親に仕事の状況を報告する」という条件を取り付けたのかもしれない。


何はともあれ母親はPを信頼しきっている様子で、良好な関係を築いているようだ。Pと談笑する様子は、娘の出来のいい成績表を受け取った母親の姿そのもので、もはや三者面談の様相を呈している。

そして、冬優子は一人っ子であり、親からの愛情を一身に受けてきた。


アニメーションでは彼女の「アイドル」としての原点である女児向けアイドルアニメのグッズが降り注ぐとともに、「過去」の象徴であるアルバムが開かれる様子が描かれた。本コミュで紐解かれるのは彼女のルーツだ。

「starring F」における黛冬優子の衣装を見てみる。甘めの衣装を好む冬優子であるが、自分はより一層幼い印象を受けた(卒倒するほどかわいい)。

これは紛れもなく家族の中での「子ども」としての一面の冬優子だ。アイドルとしての冬優子である以前に、彼女は家族にしか見せない一面のある一人の少女だった。

母親は冬優子を「ふゆちゃん」と呼ぶ。両者のやりとりから非常に良好な親子関係を築いていることがわかる。一方で、19歳に成長した冬優子に対しても「ふゆちゃん」と呼んでおり、この呼称にはやや年齢とつり合っていない印象も受ける。

ここで、「ふゆ」という冬優子の一人称について仮説を考えた。それは、母親が呼ぶ「ふゆちゃん」が冬優子が自身を「ふゆ」と呼ぶ原点になっているということだ。

どういうことか。幼少期の彼女にとって母親が呼ぶ「ふゆ」は愛されて当然の存在だった。だとすると、幼少期の彼女は母親だけではなく、周囲の人間からも愛されたいという欲求の現れとして「ふゆ」を名乗り始めたのではないか(おそらく無自覚に)。

冬優子が他人に愛されるために作り出した「ふゆ」の原点、それは母親からの一点の陰りもない愛情だった。

また、冬優子は母親を「お母さん」と呼ぶが、いないところでは「あの人」と呼ぶ(「母親」と呼ぶ一幕もある)。

このあたりの親の呼称の使い分けはよく見られること思うのだが、「ふゆ」ではなく「冬優子」にも多様なペルソナがあることがわかり、人間のリアルを感じる。


こういう幼さと達観した女性の面をあわせ持つあたりもまた黛冬優子というキャラクターの魅力のひとつだと思う(冬優子はこういうところを褒めると絶対に「うげ」という表情を浮かべ嫌がる)。

話を戻すと、こうした家庭環境の中で、冬優子は「愛される喜び」を育んできたとも言える。

愛される喜び。愛されたいという願望。それは、間違いなくアイドルという職業人にとって必要不可欠なものであり、彼女の特筆すべき才能だ。冬優子が日夜、自身のため、ファンのため努力を欠かさないのは、こうした背景があった。

2.冬優子と学校

かくして誕生した「ふゆ」だが、年を重ねるごとに壁にぶちあたりまくっていたことがわかる。

小学生時代、冬優子は「ふゆ」を演じることにより時折トラブルを起こしていた。

ちなみにこの後、叩き合いの喧嘩に発展する。しかし、一対多数にも関わらず、幸か不幸か、勝気な性格から冬優子は喧嘩を売ってきた女生徒を返り討ちにしている。負けん気の強さは生来の物だった。

中学時代、冬優子は「ふゆ」を演じ続けていたが、やはり人間関係で苦労したようだ。何らかの理由で環境も変わった様子だ。


冬優子の口から語られるエピソード。これは単に「冬優子の秘められた過去」が描かれているわけではない。

母親に愛された「ふゆ」が誰からも愛されるべき「ふゆ」として洗練されていく様が描かれているのである。

黛冬優子という人物の尊敬すべき点のひとつは、トライアンドエラーを繰り返す中でその都度「ふゆ」をチューニングしてきたことだ。彼女は人間関係における衝突を繰り返しながら、決して「ふゆ」を諦めることはなかった。

選択肢のひとつとして、「ふゆ」として振る舞うことを諦め「冬優子」として振る舞い孤立する(と本人は思い込んでいる)道もあっただろう。しかし、彼女は周囲が変化し、逆風が吹く中でも、決して「愛されるための努力」を惜しむことはなかった。

3.冬優子の武器とは

冬優子の武器とは何か。

彼女は器用なアイドルだ。自身の過去からも、キャラクターに合い、番組受けするエピソードを拾い上げることができる。収録現場においても、スタジオの雰囲気に臨機応変に対応することができる。それは、カメラに映っていない場面でも遺憾無く発揮されている。

こうした非凡さは彼女の産まれ持った才能ではなく、実は、後天的に獲得したものだった。それこそ膨大なトライアンドエラーを繰り返す中で。

冬優子の武器は「ふゆ」というキャラクターである。しかし、これは、母親との関係で築き上げた「愛される喜び」を背景とする「愛されるための努力」を冬優子が重ねてきた成果に他ならない。


はじめは荒削りな、武器とも呼べないような代物だったのかもしれない。しかし、幾度となく熱され、冷やされ、何度も何度も叩き上げられ、鍛錬されてきた。


自分は、「ふゆ」が経てきた過程を知り、「ふゆ」はまるで日本刀のような武器だと思った。自らを凡人であると信じて疑わない彼女が、天才達の蔓延るアイドルという世界で戦っていくため、手に取る唯一無二の武器だ。

そして、彼女はその武器をこれからもひたすらに磨き続けていく。愛されることを決して諦めずに。そのスタンスこそ彼女の本領である。

4.主演は誰か

コミュのタイトルになっている「starring F」とは直訳すると「主演 F」である。

冬優子は「F=ふゆ」を演じ続けてきた。

はたして、彼女の人生は、「ふゆ」を演じることが命題なのだろうか。

プロデューサーは言う。


ありのままの「黛冬優子」を愛する人もいるのだと。それは、プロデューサーであり、ストレイライトのメンバーでもある。


彼女をプロデュースした方には言うまでもなく、口は悪いが面倒見がよく、気が強く、褒められて無邪気に喜ぶ彼女は言葉では言い表せないほど一人の少女として魅力的だ。ありのままの黛冬優子を愛しているのは、画面の前の我々も同じだ。


それは、いずれも、「冬優子」がアイドルを始めるという決断をしたからこそ得たものだ。アイドルとしての主演は「ふゆ」であり、人生の主演は紛れもなく「冬優子」であった。

5.最後に


本コミュを読み、まず第一印象で、黛冬優子という人物を語るにあたって、今後ずっと考察され、語り継がれていくコミュであることは間違いないと確信しました。


冬優子の本質に迫るエピソードが恒常pSSRに詰め込まれているということは喜ぶべきことだと思います。少なくとも限定よりも多くの方の目に触れるコミュになるので、その点については本当に良かった……。


本記事が考察の一助になりましたらこれほど嬉しいことはありません。ここまでお読みいただいた方、本当にありがとうございました。

END

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