全ての人に親しくあれるのは死者だけ説〜無限の親しみ資源としての死者〜


きっかけ-子供のモテ話への義母の反応

息子がモテたら寂しいですか?

うちの息子はモテるらしい。
というのもクラスなり、学童なり、子供教室なりで一緒になった女子(複数)からラブレターを貰ってくるからである。
義母とLINEをしていた際に、そういえば、と言う感じで「最近よくラブレターを貰ってきます」と知らせたら、「寂しくない?」と反応が返ってきた。息子が外向的にふるまえているのは良いことなので、寂しいという気分は良く分からないが、私の本能が告げた。同意しておけ、と。なので「これからちょっと寂しくなるかもしれませんね~」と返した。余談。
それで、考えた。
ああ、息子の中で今まではママ最優先だったのが、これからは優先度が下がっていく一方なのだと。ていうかそうじゃないと困るわけだが、それを寂しいととらえる気持ちは分かる。そういう事を義母は言いたかったのだろうと。
義母の息子であり私の夫である人は、就学にあたって実家を出て、そのまま就職して……と距離的には早々に巣立ちをキメたわけだが、長く彼女も作らなかったし、交友関係が広いわけでもない。(警戒心が強いタイプだった)
だから心理的にはずっと可愛い一人息子のままでいたのだ。
結婚したことにより、彼の中の優先度では「自分が作った家庭」が一番になり、実家(義母)の優先度は下がっただろう。
「私が優先されたのよフフン」みたいな話をしたいわけではなくて、生きている限り全ての人に等しく接することは出来ない。という話をしていきたいわけだが伝わっているだろうか。

息子の仏壇をめちゃくちゃ世話する義母

で、私の夫は亡くなって、仏壇は彼の実家にある。正直、自分が仏壇の世話を出来ると思っていないし、そもそも戒名とか位牌に夫の存在はゼロだなと感じているので愛着もわかない。
(墓参りはする。遺骨は完全に夫由来であるから愛着もある。ちなみに分骨してもらった骨も手元にある)
ということで、義実家に帰省した際などもうっかりすると線香をあげるのを忘れそうになるので、意識して行っている。タスク処理みたいな感じである。
それで見出しの通りですが、義母はめちゃくちゃ仏壇の世話をする。毎朝、緑茶に加えてコーヒーも供えるし、食べ物も、いただいたお供え物を置くのは当然のこと、普段の食事でも彼の好物があるといそいそと上げにいく。
仏壇の存在を忘れないでいられるのって、とてもすごい。私は今、家に自分の父親の仏壇があるが、線香をあげてない。仏壇の存在を忘れているからである。
仏壇は、物を言わない。だから世話し放題だし、忘れ放題なのである。どっちでも好きにしたら良いと思う。「良いと思う」とか許可じみた言葉を使うのもおかしいくらい、自由である。個人の勝手である。また話が逸れたな。
話を戻すと、この世話し放題、というのがポイントで、自分の手元に置けるし好きなだけ関われるというのが仏壇というものだ。
相手が生者だったらこうはいかない。相手によって関わりの度合いとかを選ぶのが生きている人間である。だって生きている人間には時間が流れており、時間は有限だから。死者の時間は無限なので、すべての人に等しく渡せる。だから死者は全ての、それを求める相手に、等しく親しくあれるのだ。

内観-訃報をリポストしない自分

なんとなく嫌だからしない、の理由が分かったかも

ところで私はSNSで訃報をリポストしないしコメントもしない主義である。別に特別主張したいわけではないので、今まで、多分公言はしていない。ただひっそりと、主義の通りにしていただけである。
(とか言ってリポストしたことあったらゴメン。多分無いと思うけど)
自分でも理由が分かっていなくて、「なんとなく嫌」としか捉えてなかったのだが、前述の理論から考えると自分が何に「嫌さ」を嗅ぎ取っているのか分かった気がした。
人間は、死んだ瞬間から求める相手全てに親しくあれる存在になる。ということをみんな知っているのである。言語化はしていないけど、感覚として知っている。
どれだけ遠い人でも偉人でも有名人でも、死んだらその人の時間は無限になって共有される。死者について語れば死者から親しみが返ってくるのである。(スピリチュアルな話ではなく、悼んでいる側の人の心理にそういう作用があるということ)
さらに生きている人間との関係では、その内に常に寂しさの可能性が含まれている。生きている人間は、有限の時間の振り分けを相手に対して常に行っているからである。生きている人間同士の関係というのは、クイズ番組のランキングテロップみたいに常に1位が入れ替わっているものだ。
じゃあ死者が相手だとどうか。寂しさの可能性どころではなく、上限の寂しさがある。この上なく寂しく悲しい。でも寂しさはその上限で固定されて、しかも生きている人間の側は全員等しく上限で寂しいのである。ランキングテロップみたいにコロコロ入れ替わることが無くなるのだ。
訃報をSNSで共有してコメントするのは、この同じ位置に固定された生者同士の連帯のように、私には見える。
全員が等しく親しくあれる、優先度を競わなくていい、それが死者だから。
無限の時間と親しみを分け合う。食べても食べても無くならない食べ物みたいなもんである。と見えているだけなので、異論は普通にあると思います。見出しにつけてますけど、私の内観の話なので。主観でしかないぞ。他人の主観に怒っても時間の無駄だぞ。
と、ちょっと言い訳を挟みましたけど、つまり私が何となく嫌と感じていたものの正体は、この「分け合ってる感じ」だと思う。
その点私は変なこだわりというか、潔癖さがある。

まとめ-使えるものは使ったらいいよ

でまあ、何が言いたいかというと、「けしからん! 冒涜である!」とかではもちろん無い。
だってそこにあるのは、無限に使える親しみ資源なので。そして世界は生者の都合で出来ているものなので。使えるものは使っていったらいいと思う。
仏壇をめちゃくちゃに世話してもよし。訃報を共有して嘆くもよしである。
親しみ資源によって生きている側が癒されるならそれが正解でしょうと思う。
それはそれとして、私の中の「なんか……」が分析できて嬉しかったので浮かれて書いた記事です。これでも浮かれてるんですよ。浮かれてなかったらこんな長文書かんよ。
全ての人に等しく対するなんて、生きている人間には出来ないことだ。って分かって良かったなあ。という感想です。

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