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屋号?|「コトデル」ってなに?|理念?

 コトデルのタキダアユです。

 人の中に本来あるコトを言葉にして引き出す。そのためにまずは自分が見えること、感じたことを出し惜しみしない。それが「コトデル」の考え方。と、はじめてのnoteに記しました。

 それ以来「コトデル」について触れてきませんでしたので、今回は改めて想いを綴っていきます。


 大学を卒業しておよそ一〇年間、自分の作品を書くことができませんでした。

 学生時代も決してアイデアが湯水の如く湧いていた訳ではありません。毎日毎晩パソコンの前でのたうち回りながら、原稿を書いていました。締切も守らず、ようやく書き上げても、自分の言いたいことの半分も言えていない。そんな心地の創作活動です。

 三二歳のとき、実家を離れて生活を始めました。自分一人分の人生にだけ、責任を持てればいい環境です。好きなように部屋を飾り、やりたいことをやり、会いたい人に会おうと思いました。でも、なかなか方向が定まりません。

 そんなときです。「人生の棚卸し」を勧められました。過去のこと、親のこと、自分のこと、未来のこと……これらを自分で見つめるだけでなく、他の人の前に差し出し、見てもらうのです。そして、どう見えたか、どう感じたかを教えてもらう。そういう場に出会いました。

 すると、私の中には、あまりにも「見ないようにしてきたこと」「そこにあると気がつかなかったこと」「言語化できなかったこと」たくさんの「コト」が存在していたのです。びっくり!

 やっぱり私は物語を書きたい。それに気がつくと、あれほど自分の作品を産むことができなかった私が、三ヶ月ほどで一本の小説を書き上げたのです。

 小説は地方の文学賞に応募しましたが、箸にも棒にもかかりません。文章の基本を習い直そうと、教室へ通うことにしました。授業には休まず出席し、課題が出たら締切を守り、必ず提出しました。学生時代の私には到底成し遂げられなかったことです。

 書きたいことがなくなった訳でも、書くことができなくなった訳でもありませんでした。知らず知らずのうちに、見たこと聞いたこと、感じたことに蓋をして、無かったことにしようとしていた自分がいたのです。


 この蓋の存在には、自分の力だけで気がつくことはできませんでした。自分の背中は自分では見られないように、誰かの助け、視線が不可欠なのです。

 もし、あなたの中にも、そんな蓋が存在するとしたら。それをあなたが気がつけて、外せるまで寄り添いたい。見つめていたい。

 私が言葉にするのは、決してあなたの代弁ではありません。私が見てきたこと、感じたことを綴ります。共感も、反感も、あなたが自ら心の声を紡ぐための呼び水となるれのなら。心の真ん中にあるコトを引き出す。それが「コトデル」の目的とするところです。


 自分の中に湧いたことを出し惜しまない。蓋をしかける、その心の機微さえも捉える。見つめて、言葉にしていく。それが、私自身の救いにもなるのです。
 ブレずにしなやかに生きるため、あなたと私の心に「コトデル」を!

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