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3.11によせて

目を瞑ると、いまでも鮮明に蘇る光景がある。

2011年3月13日の夜、福島第一原発の爆発の翌日、僕は家族とともに福島から祖母の暮らす千葉に向かって車で避難していた。

真夜中の国道6号線。停電で闇に覆われた街の中、渋滞する車の赤いテールランプだけが果てしなく続いていく。

カーラジオから流れる原発のニュースと、時折けたたましく鳴り響く緊急地震速報を聞きながら、「もう、福島には戻れないかもしれない」と思った。

毎日歩いてきた道や見慣れた町並み、そこに残してきた思い出の数々が、途方もなく愛おしく感じられた。

生まれてはじめて「ふるさと」を意識したのは、その時だった。


* * *


3月11日、数日前に高校の卒業式を終えたばかりの僕は、母といわき市内の家電量販店にいた。

店を出て、立体駐車場に停めた車に乗り込んだとき、車が大きく揺さぶられた。わけもわからず、車のエンジンが壊れたのかと思った。窓の外を見ると、駐車場から外に向かって走っていく人たちの姿が見えた。

「地震だ!」

駐車場が崩れて下敷きになるかもしれない。急いで外に走った。

とてつもない揺れだった。駐車場の前の道路に出ると、向かいのビルの2階の窓ガラスが割れ、数メートル先の地面に降り注いだ。民家の塀はこんにゃくのように波打ち、いまにも倒れそうだった。

同じように逃げてきた知らない女性と母と3人で抱き合い、路上にしゃがみこみ、揺れが収まるのをただひたすら待った。いまだかつて体験したことのない、上下左右に突き上げ揺さぶられるような地震。このまま世界が滅びてしまうのではないかと、冗談ではなく、本当にそう思った。

女性が握りしめる携帯電話の画面が見えた。待ち受け画面は、まだ小さい赤ちゃんの画像だった。彼女は泣きながらその子の名前を呼び続けた。



何分経ったかわからない、途方もなく長く感じた時間が過ぎ、揺れが収まった。どうやって家まで帰ったのか、そのあとの記憶は曖昧だ。


* * *


それは、始まりに過ぎなかった。この震災の全貌が明らかになるのは、それからずっと後のことだった。

東北沿岸を襲う大津波、暗闇の中で燃える気仙沼、福島第一原発の爆発。ニュースの映像が、いまもまだ脳裏に焼き付いている。

早いもので、10年経つのだ。あの春、高校を卒業した僕は、社会に出て28歳を迎えた。

毎年、3月11日を迎えるたび、日々薄れていく記憶をなぞり、あの日の出来事を反芻する。忘れてはいけない、忘れるなよ、と自分に言い聞かせながら。

今日と同じ明日が来ることは、決してあたりまえではないのだから。




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