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ハーバードの人生が変わる東洋哲学

 今回は読書会の先輩に教えてもらったこちら、ハーバード大学東アジア言語文明学科の中国史教授マイケル・ピュエット氏と、ジャーナリストのクリスティーン・グロス=ロー女史が著したThe Pathの熊谷淳子さんによる訳本。なんと、マイケル・ピュエット氏の古代中国の倫理学および政治哲学を扱った学部教授は、ハーバード大学で「経済学入門」「コンピューター科学入門」の次に履修者数が多い授業になっているそうですね。

 早速、西洋人が解釈した東洋哲学というものを見ていきましょう。

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西洋人によって得た自由と現代の悩み

19世紀に伝統的な(自由のない)世界から離脱した西洋人は、その後二世紀を費やして社会主義、ファシズム、共産主義、民主制資本主義など様々な政治社会思想に取り組み、その結果、ついに1989年のベルリンの壁崩壊とともに、世界に秩序をもたらす正しい方法として、新自由主義が勝利をおさめたとしています。

しかし、にもかかわらず、先進世界で急増している不満や自己中心主義や不安をどう考えればいいのか?どうして貧富の格差拡大や環境上、人道上の危機が生じるのか?ということを出発点にしています。

トロッコ問題など考えても意味がない

西洋では、道徳・倫理上のジレンマに取り組むとき、象徴的な架空の状況を想定し、徹底的に理性的に考えるそうです。その代表例が上のイメージにある”トロッコ問題”。

イメージのように、先で二股に分岐するトロッコ線路上に、それぞれ一人、五人の人が縛り付けられている。迫ってくるトロッコの切り替えポイントにいるのは自分、はたしてどちらに進ませるのが正しいのか?

筆者は、本書に挙げる古代中国の思想家なら、実際自分がこのような場面に遭遇したら、こんな理想的な計算など役に立たないと断じるだろうと言います。それは、その思想家たちが生きた時代が変遷期という厳しい時代だったからであり、そのため、抽象的なことより、より現実的・具体的に世界を変える方法を考えたからだと言います。

「本当の自分」を探してはいけない

”偽りをなくせ。本物であれ。真の自分に正直であれ” 今どきのこうしたスローガンは、自分の心をのぞき込むようにけしかけるので、私たちは自分が何者かを見いだし、ありのまま受け入れようともがくわけですが、孔子の考えは全く違っていると説きます。

そういって見つけた自分(たとえば「イライラしやすい」とか)は、実は”あるとき、ある場所での自分”を写したスナップに過ぎないのではないか?むしろ私たちは様々な感情や性向や願望や特徴がごちゃまぜになっていて、いつも違う方向から引っ張られている存在なのではないか?そうすると自己は鍛えることができるものなのではないか?と考えたそうなんですね。

たとえば、妻が仕事から帰ったら(たとえパソコンから離れたくなくても)玄関で出迎える、というように、自己の行動パターンを知り、積極的にその修正に取り組み、ゆっくり時間をかけて行動パターンを変えることで、自分ですら気付いていなかった一面を開拓して、よりよい人間へと成長できるという考え方なんですね。

心が知らせてくれるもの

孟子は、「アメとムチ」による指導、のような計算的なやり方で人間の行動を方向付けようとすれば、知的思考を感情面と分離してしまうと危惧され方なんだそうです。つまりその人の「善」は賞罰による方程式にあるのではなく、その人自身の中に既に存在しているのだと。

孟子にとっての「命」は人生の偶然性を意味することばだったと解釈されています。それは、大なり小なり心を揺さぶる出来事(たとえば親友の急死、おもいがけないチャンスなど)のことのようです。そして、固定観念を捨てて心に敏感になれば、心は命へ導く道案内をしてくれるというのです。そういった命に気付いて行動をし続ければ、自分はこういう人間だと思っていたものがすべて変わり始めると考えるのだそうです。

強くなるということ

老子は「道」を説いた人物で、「不道は早く已む(道に逆らうものは早く滅びてしまう)」と言っているのですが、この「道」は、実は「かなた」にある理想ではなく、分化していない原始の状態であり、あらゆるものに先立つものを示しているのだそうです。人の成長を樹木に例えると、大人になってゆくにつれて分化を進め、しなやかな若木(柔)からオークの大木(剛)のようになっていくのですが、しかしこれは「道」から離れることになってしまうそうです。

一見立派に見えるオークの大木は大風が吹けば倒れてしまうが、若木はしなやかに大風をかわし、倒れることを免れるように、影響力というものは、周囲との関係性の中に生じるのであって、剛を以て権力をかざして威圧しようとするよりも、常日頃から柔らかさとしなやかさによって周囲との関係を築くことの方が、結果として大きな影響力を得るというのです。一般的に「強さ」の要素と言われる、「もっともらしく自己主張したり、相手を屈服させる」部分というのは、むしろ弱い方が良いのだと説いているのです。

「あるがまま」がよいとは限らない

荀子は、人の本性をねじ曲がった木にたとえ、外から力ずくで真っすぐにしなければならないものととらえていたそうだ。そのためには「偽」、すなわち礼を生じさせる「人為」が必要になるとしているそうです。

人為的に構築した礼などを通して、自分の本性に行動パターンを根づかせることで、幼い子どものようなかんしゃくの衝動を抑えられるようになり、そうしてものごとに対する反応を形成していけるとしていると。

しかし、それは何のためでしょうか?

荀子は、宇宙のあらゆる生きもののなかで、唯一わたしたちだけが自己の能力をはるかに超えることができ、自分のために良い人生をつくれるとかんがえたそうです。本来持つものを、礼によって磨いてさらに美しく輝かせる。宝石の原石を磨く工程にも似ていますね。


独断と偏見で一部を抜き出しましたが、本書にはまだたくさんの知見や実践のヒントが収録されています。

私はこれから四書五経に取り組もうとしていますが、これからの学びが楽しみになる。そんな一冊でした。(おしまい)

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