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国家と教養

今回はこちら!藤原正彦さんの「国家と教養」について私なりの解釈をまとめていきたいと思います。

教養とは?

読書会でもテーマに挙がっていたのがこの「教養とは何か?」という問い。Wikipedeaでは「個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと」となっておりますが、本書はタイトルの通りより社会との関係が深い捉え方になっています。

教養のルーツ

古くは古代ギリシアに遡りますが、当時は身分が自由人と奴隷(売買される階級としての)に分かれていたわけですが、奴隷も自由人になることはできたんだそうです。ただ、自由人になるためには必須の教養として7つの科目が基本とされていたそうです。それが数学系四科(音楽、算術、幾何学、天文)と言語系三科(文法、修辞、論理)だったんだそうで、帝政ローマ時代末期には「自由七科」と呼ばれるようになり、これは現代のアメリカや日本の大学でも教養科目として残っているということです。

つまり教養とは、使われる側から、社会に能動的に関わっていく者に必要とされる知識・能力だということなのです。

哲学至上教養の限界

ただ教養があれば社会が理想的になるかというと、そうではなく、数々の過ちが繰り返されているわけです。例えば、第一次世界大戦~第二次世界大戦期のドイツでは、第一次大戦の未曽有の悲劇の後にヒットラーが登場するわけです。ヒットラーはどこからともなく現れてドイツ民を支配したのではなく、ドイツ民に支持され選ばれていたのです(1933年に国際連盟脱退時支持率95%、1938年オーストリア併合時支持率99%@国民投票)。

どうしてこうなったのかというと、1810年に困窮していたドイツは、教養を柱として国を立たせるため、ベルリン大学を設立します(これが各国の大学のモデルとなっていきます)。そして、哲学を頂点に置いたギリシア古典路線の教養を進めたわけです。

これは残念ながら、エリート層と一般国民の分断を招いてしまった(一部エリートが民衆を見下す構造)。ただ、当時はそれでもよかったのです。というのは民衆の多くは農民だったため、教養レベルが低く「あの人たちに任せていれば間違いない」と思えたからです。

ところが、工業化の進化に伴い、民が街に集まり、新聞などマスメディアに触れることで教養レベルが上がったことで官僚主義の嫌悪が高まり、同時に科学技術の発達により、哲学のような人文科学の威信が低下した。こうして存在理由を失いかけたエリート教養層は、存在理由回復のため「民族主義」に走り、戦争を抑止するどころか、むしろ煽っていったというわけです。そしてヒットラーの登場を招いたと。

日本における教養

明治維新までに生まれた知識人や、日清戦争で活躍した将軍たちはみな幼いころに四書五経の素読を受け、家庭教育で武士道精神や儒学を身体感覚として取り込んでていたんだそうです。だから、西洋から新しい考え方が入ってきても、そういった”日本人の基礎”の上に新しい考えを咀嚼できた。

しかし、大正、昭和の知識人達はそういった日本古来のものは明確に持っておらず、西洋の崇拝に発した借り物の思想であることに気付かず、その危うさに気付くこともできなかったとみています。夏目漱石も明治44年に以下のように語っています。

「日本の開化は、西洋からの圧力に対応するため、やらざるを得なかった軽薄で上滑りしたもので、子供が煙草をくわえてうまそうな格好をしているようなもの

こうして、日本人としての形(基盤)を忘れた葛藤なき教養人は、マルクス主義にかぶれ、ナチズム・軍国主義に流れ、戦後はGHQ史観に流され、左翼思想に流され、今やグローバリズムに流されているというのです。

民主主義と教養

そして現代社会の病の本質は、世界規模での民主主義の浸透に、各国の国民教養がついていっていないという不合理にあり、国民が未熟の内は、民主主義は最低のシステムだ。と説いています。

20世紀に急激に多くの国で普通選挙による民主主義が導入されたため、「国民の未熟」という歴史上ほとんど問題とされてこなかったものが初めて大問題として顕在化してきたと言います。そして、ただ追い付いていないだけではなく、資本主義が教養の衰微を招いているとも指摘します。

これからの教養

筆者は、これに対して、単に教養強化の必要性だけでなく、「生とは何か?」という従来の教養だけでなく、「いかに生きるか?」という現実対応型の教養も必要になっていると言います。これまでの教養「1.人文教養:歴史をもつ文学や哲学」「2.社会教養:政治、経済、歴史、地政学」「3.科学教養:自然科学や統計」に加えて、それらに生を吹き込むための第四の教養として「4.大衆文化教養情緒や形」が必要だということです。そしてそれらは、読書や登山、古典音楽鑑賞、旅、人との付き合い、芝居や映画鑑賞によって養われるのだそうです。

偶然なのか導きか

前回のセンスメイキングでは、血の通った判断や思考のベースになるということで人文科学を挙げており、これには本著の情緒や形も含められていたように思います(「感じられることの全て」までが対象にふくめられていたので)。偶然なのか本書ではそれがこれからの社会とどのようなつながりがあるのか?について記されていました。

どのような世の中を残したいか?ということを考える時、現状理解に立ち返るわけですが、いろいろな問題について深堀りしていく度に感じるのは本書でも触れられていた「今の民主主義は、国民に要求される教養レベルが高すぎるということ」とやはり「日本という土地に適した社会が必要」ということです。

これは、現在の教育システムやメディアの利益構造、外国人の流入(海外からの年間流入移住者数がOECD中No.4@2015年 OECD調べ)を考えると状況はより複雑で、さらに工夫が必要なのだと思います。

しかし、ここで本書に出会ったということは、立ち向かってゆけということなのでしょう。知識だけでなく、五感(第六感も?)もフルに使って感じろということなのでしょう。(おしまい)

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