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タニグチさんの思い出

池袋は私の生活圏からやや離れるのだけれど、ちょくちょくお邪魔するバーが西口にある。

客の9割以上は、ウイスキーを飲むことを目当てにやってくるようなバーだ。

そんなバーのカウンターでは、ウイスキーの話題が多くなるのは自然なことだ。「最近リリースされたこのボトルが美味い」とか「あのボトルは人気で買えなかった」とかといったたわいのない会話で、店の時間が流れていく。

その店には、タニグチさんという常連さんがいた。若い客が多いそのバーでは、いつもスーツを着て、歳のころは60代後半のようにお見受けするタニグチさんのようなタイプの客は、かなり珍しい。

少しお痩せになっているのに、ちょっと大きめのダブルのスーツをよく着ていらっしゃった。だからタニグチさんを見ると、昭和のバブルの頃のサラリーマンを思い出した。

私は自分で常連と言えるほどの客ではないし、行ったとしても早めの時間で切り上げることが多い。だから、常連のタニグチさんとはまあ7、8回カウンターでご一緒した程度。深く存じ上げているわけではない。だけどその店では、タニグチさんの周りの雰囲気が明らかに他の客のそれと違うので、カウンターの並びにいるタニグチさんのことがいつも気になって仕方がなかった。

別に悪い意味ではない。日本酒をご相伴したこともあった。ウイスキーが中心のバーなのに、なぜかタニグチさんだけ日本酒を飲んでいたりした。普通の飲み屋だとカウンターで日本酒、と言うのは別に珍しくない。だがこのバーでは、まるで鮨屋のカウンターでタニグチさんにだけずっと焼き鳥が出てきている、みたいな感じがした。

当然、と言ってはなんだが、タニグチさんはウイスキーの話なんかしない。オーナーがタニグチさんにあえていろいろ話しかけるけど、大体「うん」とか「まあそうだな」とか、大したことは言わず、たいていニコニコしながら旨そうに酒を飲んでいた。

愚痴ひとつこぼすことなく、カウンター越しにオーナーにどんなにいじられても、風を受けた柳のように軽く受け流す。見た目は冴えないおじさんだったけれど、タニグチさんがいるだけでバーの雰囲気がゆったりしたものになった。酔っ払ってややダメな感じの時もあったけれど、それでも店に迷惑をかけるようなことは、少なくとも私の見る限りではなかった。一回り以上歳が下の私が言うのも何だが、いわゆる「きれいな飲み方」ができる大人だった。

私はバーに一人で行くことがほとんどだ。だからウイスキーマニアの若者が多いバーに行くと、周りのウイスキー話がどうしても耳に入ってきてしまう。そして「そればっかり」なことにやや疲れてしまうこともたまにある。

彼らはウイスキーを飲むのが目的でその店に来ていることはわかっているので、それを批判するつもりは全くない。若い人が勉強熱心にいろんなウイスキー話で盛り上がっていることは決して悪くない。だが、店でのたわいのない会話をつまみに美味い酒を飲んで、楽しく笑って一日を終えることが目的で、いいウイスキーを飲むのはそのための手段である、という私のような客もいる。タニグチさんも私と同類だったと思う。私ももちろん、真面目にウイスキーを飲む目的で店に伺うこともあるのだけれど。

だから「そればっかり」だとややしんどい。多分お店の人も年がら年中ウイスキーの話をしているので、同じような感じなのではなかろうか、と勝手に思う。タニグチさんのように、「本当にどうでもいい話」をカウンター越しに楽しくキャッチボールできるような常連さんがいてくれることが、私にはやや嬉しかった。

しばらく前に、そのバーのカウンターでウイスキーのグラスを傾けながら、「最近タニグチさんお見掛けしないですね」とスタッフになんとはなしに聞いてみた。すると、「タニグチさん多分亡くなったんですよ」という、予想もしない答えが返ってきた。

確かにお痩せになっていたし、多分毎日池袋を飲み歩いていたはずだし、冷静に考えると「タニグチさんが亡くなった」というニュースはすごく意外なものではなかったかもしれない。だが、彼がこの世にもういない、と言うことを理解するのは、なかなか難しかった。

常連でない私ですら寂しく思うぐらいだから、オーナーや他の常連さんの「タニグチさんロス」は想像以上に大きなものだったようだ。

彼らが悲しむことは驚くべきことではないだろう。タニグチさんは、ウイスキーのボトル目当てにそのバーに来ているのではなく、そのバーでお店の方やその他の常連さんと過ごす時間を愛していて、そのためにしょっちゅうそのバーに来ていたのだから。

昨日店にお邪魔したら、タニグチさんのキープしたクライゲラヒーのボトルが、店の隅っこの棚にそのまま置かれていた。今晩、そのバーでは常連さんたちが集まり、お店の方々とそのボトルを開けてタニグチさんのことを偲ぶという。

タニグチさんのように、バーや他のお客さんに寂しがってもらえる酒飲みは、果たしてどれだけいるのだろうか。

今晩は、私は家でタニグチさんのために献杯しようと思う。


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