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この春やりたいこと

 私がこの春やりたいこと。
 それは妻の浮気相手を殺すことだ。
 もう三年も前から妻は浮気をしている。相手もわかっている。娘の塾の先生だ。娘の進学の相談をしているうちに、男女の関係になったらしい。
 以前は私が会社に通勤している間に逢瀬を重ねていたようだったが、コロナ渦になり、私が週に一回の通勤で、火曜日に通勤するようになったら、毎週火曜日に逢うようになった。
 なぜこのことを知っているかと言うと、会社に出勤したふりをして妻の後を追ったからである。妻は私が出勤した一時間後に男のもとに向かった。いつもの髪の毛ぼさぼさの妻ではなく、髪はきれいにセットされ、化粧も心なしか濃い感じがした。我妻ながら妙になまめかしくて、相手の男に嫉妬したくらいである。
 ちなみに私は妻とは冷め切った関係だ。なぜ離婚しないのかと言うと、ひとえに娘の杏樹がいるからである。妻に対してはなんの感情も湧かないが、娘に対しては言い知れないほどの愛情を持っている。とにかく私は娘が悲しむようなことだけはしたくないのだ。
 かといって、私は妻の不倫を許したわけではない。このまま仮面夫婦を装い、娘が独り立ちした後、浮気の証拠を突きつけて離婚するつもりだ。もう浮気の証拠写真はたくさん撮ってある。
 たいして愛情もない妻の浮気相手をなぜ私が殺したくなったかと言うと、妻の一言がきっかけだった。娘の進学先のことで議論となったとき、妻がこう言った。
「佐藤先生は〇〇中学を受験するのがいいっておっしゃってるのよ。あなたと違って佐藤さんは杏樹のことをよく理解してるから」
 そのとき、私は憤激した自分を妻に気づかれないように装うので、精一杯だった。
 まず私が許せなかった点、妻はあの男のことを「佐藤さん」と私の前で呼んだのだ。おそらく妻は気づいてはいまい。ついいつもの呼び名で呼んでしまったのだろう。
 そして杏樹のことを私より理解していると妻が思っていることが一番許せなかった。私は杏樹のためだったら、自分の命さえ差し出せる。それを言うに事欠いて、あんな間男のほうが杏樹を理解しているなどと妻は言い放ったのだ。これは私にとっては死に値するような侮辱だった。
 これだけで私が佐藤を殺す理由は十分にあると思う。そしてその時期はこの春にしようと決めたのだ。

 まず私はあの男の行動パターンを調べた。あの男は同じ市内のアパートに住んでいる。私の家から歩いて30分程度のところだ。基本的に塾に行っている時間帯は塾にいると決まっているので、それ以外は何をしているのかを徹底的に調べた。私の犯行であることがばれたら一巻の終わりなので、私は慎重に行動した。
 コロナ渦で運動不足だと言い、不定期に散歩をするようにした。時間はまちまちのようでいて、あの男の行動を観察するためにわざと時間をずらして調査したのだ。
 根気よく調査することで、かなり有力な情報を得た。
 あの男は毎夜塾が終わったあと、ウォーキングをしているのだ。それも夜になると人気のなくなる十文字山をだ。十文字山はこの辺りにある低い山で、頂上には老人ホームが立っている。この老人ホーム、昔はホテルだったのだが経営不振により、十数年前に老人ホームになったらしい。
 あの男はこの山の舗装されたところから、少し外れた山道を毎夜歩いているのだ。そして私にとって都合のよいことに、その山道のそばには池があるのだ。気絶させてこの池に放り込めば、単なる転落死として扱われるだろう。私はこの男を殺す場所をここに決めた。

 次にアリバイだ。この男を池に落とす時間帯に私が家にいないことを妻と杏樹に知られてはならない。ただ、幸運なことに、妻と娘は塾から帰ってきたら、ほとんどすぐに寝入る。私は彼女らが寝入った隙に家を出て、十文字山の池の近くで待ち伏せをすればよい。妻と娘が寝入る時間は午後11時くらい。それからあの男が塾から帰ってこの山道を通過するのは11時30分くらい。車で急げば十分に可能な時間だ。
 確実なアリバイはないが、妻も杏樹もその時間に私が外出しているとは夢にも思わないだろう。
 そもそも私と佐藤とのあいだには、塾講師とその親くらいしか接点はなく、ましてや私が浮気を知っているはずなどなく、あの男が死んだところで私が嫌疑をかけられる可能性は極めて低いのだ。
 
 犯行を決行する日になった。
 私の予定通り妻と杏樹は午後10時きっかりに帰ってきた。私は温かいココアを準備して彼女らを迎えた。杏樹はココアが好物なので、塾から帰ってくると、よく好んで飲む。私が準備することもある。そこで私は今夜だけ少し強めの睡眠薬入りのココアを準備したのだ。
 あんのじょう彼女らは喜んで睡眠薬入りのココアを飲んだ。すぐに眠くなったと言って、寝室に入った。部屋の外から耳をそばだてて、彼女らの寝息が確認されたので、私は急いで家を出た。

 池に着いたのが11時20分。予定ではあと10分ほどであの男が現れるはず。
 しばらく待っていると、あの男が現れた。私は息をひそめて物陰であの男が目の前を通るのを待った。
 あの男が私の前を通過した直後、私は犯行用に山で拾った木の棒で、あの男の後頭部を殴りつけた。一発ではおとなしくならなかったので、何度も何度も殴りつけると、男は動かなくなった。私は男の体を引きずって、池の中に落とし、棒で力任せに池の中央部へと押し出した。
 帰りに木の棒は山の裏側の中腹に捨てた。そしてなに食わぬ顔をして家に戻り、妻とは別々の寝室に戻った。

 翌日は私の出勤日であるとともに、妻があの男と逢う日だ。私は会社には有休届を出し、会社に行くふりをして妻を尾行した。妻はいつも通り、あの男のアパートの近くのカフェで男を待っていた。
 予想通り、あの男はいつまで経っても現れなかった。妻はしきりに時計を見てそれからスマホを操作して、1時間以上待っていたが、男が現れないので、あきらめて店を出た。
 やはり男は死んだのだろう。私は近所のコンビニで、地元のローカル紙を買った。
 「塾講師、池に転落死」というニュースを見てほくそ笑んだ。やはり男は死んだらしい。そして事件性もなく、単なる事故として処理されたようだ。
 私の想像以上に事がうまく進んだようだ。
 これで怒りの鉄槌をあの男に下すことができた。不倫男にふさわしい最期ともいえよう。私は自分の成功に酔いしれた。

 会社に行ったふりをして帰ってきたのは午後6時だった。その日は塾もなく杏樹も家で勉強をしていた。
 男が死んでさぞかし落胆しているであろう妻はことのほか元気に見えた。彼女もローカル紙であの男の死を知ったに違いない。自分の浮気相手は現れず、いろいろと調べ、男が死んだことを知る。落ち込む気持ちを家族には見せられず、精一杯の演技をしなければならない。
 いい気味だ。私を裏切った妻には、それくらいの罰が与えられてもいいだろう。
 私は、皮肉たっぷりだが、皮肉とは気取られないように、彼女に言った。
「どうしたんだい? なにかいいことがあったみたいだな」
 彼女がなんというか見ものだったのだが、彼女は嬉しそうに頷いてから、にやりと笑い、私の耳元でささやいた。
「そうよ。だってあなたが佐藤を殺してくれたんだから」
 私の心臓が跳ね上がった。
 彼女は勝ち誇ったような表情で私を見つめていた。あたかも獰猛な獣が獲物となる小動物を見つめるかのように。
「あなたならきっと殺してくれると思ったわよ」
 そこで初めて私は、彼女が最初から私を使って佐藤を殺すつもりだったことを悟ったのだった。
「あの男と浮気してたんじゃないのか?」
「ええ、そうよ。でも最近はあなたと別れて結婚しろだの、このままの関係を続けるつもりなら旦那にバラすだの、困ってたの。だからあなたが佐藤を憎むように仕向けたってわけ。あなたはいい金蔓ですから、まだまだ別れないわ。あいつはただのセフレ。そもそもあんな貧乏講師とは一緒になれないわよ」
「私のことを金蔓と思ってたのか……」
「そう。でもこれからは私の奴隷として生きていくのよ。あなたはもう私から永久に逃げられないのよ」

(了)


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