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このボカァ、ひどい目に遭いましたよ

「角田さん、またボクの飲み物を飲んだでしょ?」
 角田さんはボクの同僚ですが、よく無断でボクの飲み物を飲むんです。今日はボクが買っておいた缶コーヒーと紅茶の2本とも飲まれていました。おそらくボクが席をはずした時に、こっそり飲んだのでしょう。
「えっ?」
 隣の席の角田さんは、仕事中にもかかわらず、漫画本を読んでいました。ボクが声をかけると、ゆっくりと顔を上げ首をぼきりと鳴らしました。
「私がなにかしたかね?」
 ガラガラと音を立てて車つきの椅子を引きずりながら、ボクの席へ移動してきました。
「もう、とぼけないでくださいよ」
 ボカァ、口を尖らせながら、ゴミ箱からコーヒーの空き缶を取り出すと、軽く振って角田さんに見せました。
「ほら、これ。このコーヒーですよ」
「ん?」
「これは角田さんが飲んだんでしょ?」
「ほう。にゃっくんはそのコーヒーを飲んだのが、私だと言いたいわけだね?」
 彼は呆れるほどの白々しさで、ボクの顔をまじまじと見つめました。
 このボカァ、名前が「若王子(にゃくおうじ)」というのですが、角田さんは仕事中にもかかわらずボクのことを「にゃっくん」とまるで子供のように呼びます。ちなみに角田さんはボクの3歳年下なんですけどね。
「『言いたいわけだね』じゃないですよ。ボクのコーヒーを飲んだでしょ、角田さん」
「どうして?」
「どうしてって……」
 角田さんの微塵も悪びれない堂々とした態度に、このボカァ、いささか困惑しました。
「だってボカァ、このコーヒーを一滴も飲んでないんですよ。それなのに、トイレから戻ってきたら、ゴミ箱に空き缶が入ってるじゃないですか」
「なんと」
 角田さんは両手を上げて、大袈裟に驚いて見せました。仕草だけで本当に驚いていないのは一目瞭然でした。
「そのコーヒーは、にゃっくんが飲んだんじゃないのかい?」
「だから、これは……」
 角田さんが飲んだんでしょ、と言おうとしたら、角田さんがボクの言葉を遮りました。
「にゃっくんは現在の世界人口を知っているかね?」
「は?」
 角田さんがなにを言いたいのかわからずに、ボカァ、一瞬答えに詰まりました。角田さんは胸ポケットから煙草を取り出すと、ゆっくりと口にくわえ、百円ライターでシュポッと音を立てて火をつけました。
 この部屋は禁煙になっているのですが、角田さんは一切お構いなしです。周りの女子社員が眉をひそめてボクらを見ていて、ボカァ、いたたまれない気持ちになりました。
「あのコーヒーはにゃっくんが飲んだのではない。それなら私が飲んだに決まっている。にゃっくんはそう言いたいわけだ。たしかに世界中に、私たち2人きりしかいなければ、そういうことになるねえ。だが、現在の世界人口は約70億人だよ」
 そこまで言うと、角田さんは人差し指を立てて数える仕草をしました。
「確率はざっと70億人分の1だ。その結論は少々乱暴すぎないかね?」
 角田さんはわざとらしくしかめっ面をしました。煙草を口にして大きく吸い込むと、ボクにふうと煙を吹きかけました。
「どうして、ここで世界人口が関係するんですか?」
 けほけほと咳をしながら、小さな声で呟いた後、ボカァ、言いました。
「ボクが席をはずしているあいだ、角田さんがボクの席に座って飲み物を飲んでいたのを目撃した人がいるんですよ」
「なんだって?」
 角田さんはまた大仰に驚いて見せ、煙草を灰皿の上に置きました。副流煙がちょうど眼に入ってきました。眼がしみてきたので、ボカァ、ごしごしと眼をこすりました。
「ボクの席に座ってたってことは、角田さんがボクのコーヒーを飲んでたってことじゃないですか」
 ボクがそう言うと、角田さんは信じられないというような顔つきをしました。眉間にしわを寄せながら腕組みをして、うつろに天を見上げ、口の中でもごもご呟きました。
「私がこの席でなんらかの飲み物を飲んでいたら、にゃっくんのコーヒーを飲んだということになるのかね。なんだか突拍子もない話だな」
 やがて、にやりと笑ってボクに顔を近づけ、煙草臭い息を吐きかけました。
「じゃあ訊くが、私がコーヒーを飲んだというエビデンスはあるのかい?」
 ボカァ、あきれて角田さんの顔を見つめ返しました。
「エビデンスなんてあるわけないでしょ」
 角田さんはさっと身を引きました。
「これは異なことをおっしゃる。エビデンスがないのに、どうして私が飲んだと主張するのかね?」
 角田さんはいかにも不思議そうな表情で、ボクの顔をじっと見つめました。ボカァ、たじたじとして、角田さんの顔から眼をそらしました。勝ち誇ったように鼻で笑うと、角田さんは言いました。
「エビデンスがないのに私を疑うのは明らかにおかしいだろう。にゃっくんは私に濡れ衣を着せるつもりかね」
 それから角田さんはわざとらしく被害者面をして見せました。
「エビデンスがないんじゃ、裁判になっても、絶対に私が勝てるぜ」
 煙草を手に取って口に入れ、大きく息を吸いこみました。そして再びボクの顔にふうっと煙を吹きかけました。
「こほんこほん」
 ボカァ、できるだけ悲しげな表情を作って、彼に言いました。
「エビデンスだとか、裁判だとか、そんな大袈裟に騒がなきゃいけないことなんですか?」
「いけないね」
 角田さんは決めつけるように言いました。煙草を灰皿にぎゅっと押しつけて火を消すと、ボクを横目でぎろりと睨みました。
「にゃっくん、あんた、私に罪をなすりつけたんだぜ。私をさも犯罪者かのごとく扱ったんだぜ。そんな冤罪を被ったら、私としては裁判になっても、徹底的に戦うしかないだろう」
「いや。ボクの言い方が悪かったのなら、謝りますよ」
 ボカァ、嘆息しました。
「だけどですね、その、犯罪だとか、冤罪だとか、裁判だとか物騒な言葉はやめてもらえませんか」
「人に罪をなすりつけておいて、今度は私の物言いに因縁をつけるんだな」
 角田さんは呆れたように呟いて、かぶりを振りました。
「じゃあ、言わせてもらうがな」
 角田さんは、小太りの割りには、敏捷な動作でさっと立ち上がると、ボクを見下ろし、大きな声で言いました。
「にゃっくんは私を犯罪者扱いしたんだ。さも人間のクズのように扱ったんだぞ。ところが、私が無実を証明すると、今度は私の言い方にまで文句をつけだすわけだ」
 角田さんは大きく深呼吸をすると、ボクに人差し指を向け、いっそう大きな声を張り上げました。
「もし私が温厚な人間でなければ、にゃっくんを名誉毀損で訴えてもよいくらいのものなんだぞ」
 その声は部署中に響き渡りました。周りの同僚たちは、何事が起きたかとこちらのほうを一斉に振り向きました。遠くに見える社員が、「またか」といった表情で首を振っているのが見えました。
「私は、自分の名誉を守るため、徹底的に闘ってやるぞ!」
 このボカァ、怒鳴る角田さんの顔をただじっと眺めているだけでした。激昂しているふうを装っていましたが、ボクを言い負かした嬉しさで、角田さんの小鼻がひくひく動いているのが見えました。
 そんなこと言うのなら、さっきボクに煙草の煙を吐きかけたのは傷害罪に当たらないんですか。

「どうしたんだね?」
 ボクたちの言い争い──といっても角田さんが一方的にボクを怒鳴りつけていただけですが──を聞いて、今度は村山さんが仲裁に入ってきました。村山さんはボクの先輩でもあり、上司でもあるんです。
「いや、にゃっくんが私を窃盗犯扱いするんですよね」
 そう言うと、角田さんはボクのほうにあごをしゃくりつけました。
「い、いや、窃盗犯なんて……」
 ボカァ、あわてて取り消そうとしました。
「たった今、私を窃盗犯扱いしたじゃないか」
 角田さんは憤然といきり立ちました。
「まあまあ」
 村山さんは眼をしばたたかせながら、角田さんを制しました。
「いきなりそんなこと言われても事情がわからないよ。とりあえずにゃっくん、最初から話をしてくれないかね」
 ボカァ、ほっとしました。なぜなら角田さんがボクの席でなにかを飲んでいたことを教えてくれたのは、村山さんだったからです。ボカァ、できるだけわかりやすく、ことの顛末を村山さんに説明しました。
「なるほど」
 ボクの話を訊いて、村山さんはゆっくりと何度も頷きました。それからコーヒーの空き缶を指さしました。
「角田君、このコーヒーは君が飲んだんじゃないんだね?」
「そのことは法廷でも証言できますよ」
 角田さんはわざといやらしい言い方をしました。
「じゃあ、にゃっくんが飲んだのかい?」
 ボカァ、ぶるぶるとかぶりを振りました。
「ち、違いますよ」
「このコーヒーを飲んだのは君たちではないんだね?」
「はい」
 村山さんは大きく頷きました。それから厳かな表情をして、ボクたちの顔を見まわしました。
「実を言うと、私はコーヒーを飲んだ犯人を知っている。そして、その犯人は角田君ではない。もちろんにゃっくんでもないよ」
「ええっ?」
 ボカァ、愕然としました。
「村山さん言ってたじゃないですか。角田さんがここに座って飲んでたって」
「たしかに言ったが、角田君が『コーヒー』を飲んだなんて、私は一言も言ってないよ」
「そんな」
 ボカァ、たちまち後悔の念に苛まれました。こんなことなら、誰がやったのか最初から村山さんに聞いておけばよかったと。そうしておけば、角田さんに厭味を言われたり、怒鳴られたりせずに済んだのに。
 でも一体誰が? ボカァ、思わず村山さんの腕を強くつかみました。
「じゃ、じゃあ、誰がコーヒーを飲んだんです?」
「その前にだな……」
 角田さんが、底意地の悪そうな顔でボクを見ながら、口を開きました。
「犯人が誰かを聞く前に、にゃっくんは、なにかやることがないのかい?」
 黄色い歯をむき出して、にたにたと笑いました。
 ボカァ、はっと村山さんの腕から手を離して、おそるおそる角田さんのほうに顔を向けました。ここで角田さんがへそを曲げたら、軽く二、三時間くらいは説教をくらいそうです。ボカァ、角田さんの方に向き直り、なるべく神妙そうな顔をして頭を深々と下げました。
「角田さんのことを疑って、本当に申し訳ありませんでした。ごめんなさい」
「いや。そんなことでは私の気持ちは治まらないね」
 角田さんは即座に冷然と言い放ちました。
「じゃ、じゃあ、ボカァ、いったいどうすればいいんですか?」
 ボカァ、角田さんを疑ってしまったことを猛烈に悔いました。こういうまわりくどいことを言い出したら、角田さんは鬱陶しいんです。微笑を携えながら、ちくちくと嫌味を言い続けるんです。このあいだは罰金千円を払ってやっと許してもらったばかりです。これから最低一週間くらいは、彼にねちねちいびられるに違いありません。想像してボクはげんなりしました。
「謝罪の方法としてはだな」
 角田さんは、量刑を決めるときの裁判官のような鋭い眼でボクを見つめました。
「しゃ、謝罪って……」
 ボクの背筋を冷たいものが走りました。いつしか脇の下にぐっしょりと汗をかいていて、心臓が大きく高鳴り始めていました。
「もういいじゃないか、角田君」
 見かねたのか、村山さんがボクに助け舟を出してくれました。
「にゃっくんも反省しているようだし、もう一度にゃっくんが謝れば、それで許してあげられないかね。私からも頼むよ。な」
 そう言うと、村山さんは頭を深々と下げました。ボカァ、心の中で、村山さんに何度も礼を言いました。村山さんのとりなしに心の底から感謝しました。ありがとう村山さん。今日は心なしか、頭頂部の円盤ハゲも素敵ですよ。
 角田さんはしばらく腕組みして目をつむっていましたが、おもむろに目を開くと、手をゆっくりと下ろしました。
「ようし。私も男だ。そこまで村山さんが言ってくださるのなら、にゃっくんにもう一度だけ謝ってもらおう。それでこの件はきっぱりと忘れようじゃないか」
 角田さんがそう言うと、村山さんはボクの肩をぽんと叩きました。
「よかったな、にゃっくん。じゃあ、土下座して謝りたまえ」
「ど、土下座ですか?」
 ボクが驚いて声をあげると、村山さんは怪訝そうにボクの顔を見ました。
「当たり前じゃないか。あれだけのことをしでかしておいて、罰金を払わずに、土下座で済むのならありがたいと思いなさい。君は著しく角田君の名誉を毀損したんだよ」
「はあ」
「まさか、にゃっくん、お前、悪いことをしたなんて、これっぽっちも思っていないんじゃないだろうな?」
 再び角田さんが顔をこわばらせ、拳を握りしめました。ボカァ、あわてて、手をぶるぶると振って否定しました。
「ち、違いますよ。本当に悪いことをしたと思っています。はい」
 すかさずボカァ、膝をついてその場にしゃがみ込みました。そして手をついて頭を地面にこすりつけました。
「本当にごめんなさい」
 なんだか悲しくて涙が出てきそうになりました。
 角田さんはしばらく険しい表情でボクを見下していましたが、ようやく表情を緩めました。
「うん。にゃっくんの誠意はわかった。私も鬼ではない。許してあげようじゃないか。もう顔を上げなさい」
「あ、ありがとうございます」
 ボカァ、半べそをかきながら立ち上がりました。それから体の埃をぱんぱんと振り払いました。
 とても不本意でしたが、土下座までして謝ったので、これで角田さんを疑った件は終わりです。
 さあ、次は村山さんに犯人が誰かを教えてもらわなければなりません。絶対に真犯人をとっちめてやるぞ。そうでもしなきゃ、ボクの腹の虫が治まりません。ボカァ、村山さんに切り出しました。
「そこで、さっきの続きですが」
「なんだね?」
 村山さんが真面目な表情をすると、なんだかネズミのような顔になります。豊臣秀吉が「禿鼠」と言われていたことを思い出し、きっと村山さんと似ていたんだろうなと、うっすらと思いました。
「例のコーヒーの件なんですが、飲んだ人はいったい誰なのでしょうか?」
 ボクが訊ねると、たちまち村山さんは相好を崩しました。
「ああ、あれね。あれは私が飲んだんだよ。いやあ、悪かったね、にゃっくん」
「なんですって?」
 ボカァ、自分の耳が信じられませんでした。
「だから、コーヒーは私が飲んだんだよ」
「私って……」
 このボカァ、口をあんぐり開けて、馬鹿のように村山さんの顔をまじまじと眺めました。それじゃ、ことの元凶は村山さんじゃないですか。村山さんさえコーヒーを飲まなけりゃ、ボカァ、角田さんを疑うことも、土下座することもなかったのです。
 たいして反省していない様子の村山さんを見て、ボカァ、むっとしました。そこで、せいぜい厭味たっぷりに言ってやりました。
「そんなことではボクの気持ちは治まりませんよ」
「馬鹿なことを言いなさんな」
 すかさず横から角田さんがぴしゃりと言いました。
「たかだか、コーヒーを一本飲んだだけだろう。ああやって村山さんも謝っているじゃないか。それをにゃっくんはどうするつもりなんだね?」
 そして、はたと思いついたように唸りました。
「にゃっくん、まさか、その程度のことで、村山さんに土下座でもさせるつもりなのかい?」
「そ、そんな」
「まあまあ」
 張本人の村山さんが、ボクの頭をぺちぺちと軽く叩きました。
「にゃっくんがそんな無慈悲なことをするわけはないよな。たかだかコーヒーを飲んだだけなんだから」
「で、ですけど、2本も飲むなんて、ひどいじゃないですか」
「いや、私はコーヒーしか飲んでないよ」
「は?」
「私が飲んだのはコーヒーの1本だけだよ」
「だったら、紅茶を飲んだ人は誰なんですか?」
「ああ」
 再び角田さんが口をはさみました。
「紅茶なら、飲んだのは私だよ」
 ボカァ、再び自分の耳を疑いました。
「だって、さっき……」
「さっき、なんだね?」
「さっきは違うって言ったじゃないですか」
「ああ、あれは『コーヒー』を飲んだのは私じゃないって言ってたんだよ。にゃっくんは私にコーヒーの空き缶を見せただろ?」
「うう」
「にゃっくんの机の上に美味しそうな飲み物があったから、ついつい、私と村山さんで飲んでしまったんだよ」
 角田さんは自分の突き出たお腹をぽんぽんと叩き、下品にげっぷを鳴らしました。
「いやあ、おいしかったよ、にゃっくん。ごちそうさま」
「む、村山さん」
 振り返って村山さんを見ると、いつのまにかボクの席に座って、新しく買ったばかりのボクのお茶を、行儀よくすすっていました。

(了)


小説が面白いと思ったら、スキしてもらえれば嬉しいです。 講談社から「虫とりのうた」、「赤い蟷螂」、「幼虫旅館」が出版されているので、もしよろしければ! (怖い話です)