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結婚することにしたと娘がLINEで言ってきた

 24歳の娘が、来年の夏までに結婚することにしたとLINEで連絡してきた。LINEで、連絡、してきた!大事なことなので2回言う。(その数日後、彼とふたりで自宅に来てちゃんと報告してくれた。お祝いにうなぎをご馳走した。土用の丑の前日だったから。)

 2年前の春、IT企業に就職した娘は、すぐにSEになるための研修に参加した。丸々1年に及ぶその研修は、厳しいが実践的で力がつくと業界では有名らしい。最初の4か月、娘は毎日夜遅く帰宅してからも、半泣きで翌日提出の課題に取り組んでいた。文系の学部を出てSEになろうというのだから仕方あるまい、踏ん張りどころだと思っていた。

 研修5か月目の8月に入って何日か過ぎたころ。そういえば最近娘の姿を見ていないなと思った。妻に聞いてみると「へえ、気づいたんだ」と言う。しばらく前から付き合っていた彼氏の部屋に8月に入ってすぐ転がり込んだ。もううちには帰ってこないんじゃないの、と。微塵も想像していなかったので面食らった。だって大学に通っていた4年間、講義のない週末にはいつも一日中家にいて、おなかが減ると「パパ、ごはんまだ?」とか言っていたのだ。彼氏なんていなかったはずだ。いたら週末はデートだろう。それなのに就職したらいつのまにか彼氏ができていて、気がついたら同棲か。まあ、いいんだけどさ。

 娘が中学生の頃から「将来好きな相手ができたら、結婚を決める前に必ず同棲しろ。少なくとも半年以上。そうしないと相手が本当はどんなやつなのか分からないぞ」と伝えてきた。加えて「相手には会わせろよ。もしかしたらこいつはやめておけと反対するかもしれないが、それは無視しても構わない。『婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立』するんだからな」とエラそうに講釈を垂れてきたのだ。それがこんなに早く現実のものになるとは。

 聞けば娘と彼は、研修でたまたま同じ班になり、難しい課題に一緒に取り組むうちに仲良くなったらしい。同棲を始めてからの娘は、たまに服やアクセサリーを取りに立ち寄るがすぐいなくなる。晩ごはん食べていかないのかと聞いても、いらね!と、にべもない。以前はぼくの作った料理をおいしいおいしいと言って食べていたのに。それでも最初の年は彼の帰省した年末年始に数日、家に泊まっていった。でも次の年は泊まりもしなかった。娘がいないんじゃおせちもいらんわということで、今年の正月は出来合いのものをほんのちょっぴり並べた。あとは雑煮。テーブルがやけに広く見える。テレビの正月番組から流れる芸人の笑い声が部屋にこだまする。

 おそらくは娘が初めて本気で好きになった相手だ。ふたりを見ていると相思相愛ぶりが伝わってきて、こっちが照れくさいほどだ。その幸福感はぼくにも経験がある。だが、そのまま順風満帆に行くほど甘くないのが人生だろう。みんな悩んで傷つきながら大人になっていくんだ。自らを振り返ると、恋はいつも最後にこっぴどく振られて終わった。とはいえ所詮じじいのたわ言だ。娘たちはそんなこと欠片も考えていないだろう。

 娘のことを知っているぼくの友人たちは、同棲しているのならもうすぐ結婚ね、寂しくなるよーとぼくをからかう。結婚式ではあなたきっと泣いちゃうんだねと余計なことを言うやつもいる。ふん。絶対泣くもんか。

 でもいまのうちに少し思い出しておいたほうがいいかな。式場で娘との思い出が走馬灯のように駆け巡ると危ないかもしれない。

 あれは娘が中学2年の時だった。休みの日に同じ部活の友だちを家に連れてきたことがあった。妻は出かけていた。ぼくは娘から「自分の部屋から絶対出てこないで!」と厳しく言い渡され、屋根裏部屋に閉じこもっていた。下からきゃあきゃあ楽しそうに話す声が聞こえる。でも時間が経つうちにおしっこがしたくなってきた。マズイ。かなりの間我慢していたがそろそろ限界だ。音をなるべく立てないようにそろそろと階段を降りていったら、階段を駆け上がってきたふたりと鉢合わせた。

 「あ、どうも。いらっし…」挨拶しかけたら、娘が食い気味にこう言った。「見ちゃダメ!許さないから!!」。は?。「分かった!絶対に見ないからっ!」友だちは両手で顔を覆い、壁にぴったり身を寄せてぼくをやりすごそうとする。娘はものすごい形相でぼくを睨みつけてくる。この年頃の女の子は残酷だ。ぼくは軽くショックを受けたが、黙ってそそくさと用を足し、また屋根裏に引きこもった。きっと友だちには見られずに済んだはず。でもその友だちが帰ったあと、娘にひどく怒られた。

 もうひとつ。娘が小学校4年の時だ。ある日娘とふたり、外で晩ごはんを食べることになった。近所のパスタ屋に連れて行った。食べ終わって勘定を済ませて帰ろうとしたら、娘がまだ帰りたくない、ちょっと行きたいところがあると言う。ふむ。どこに行きたいの?と尋ねたが、娘は黙ってぼくの手を引っ張って歩き出した。

 連れて行かれたのはドラッグストア。こっちこっちと手招きされて近づいてみると、棚に女性用ナプキンが並んでいる。困ったな。娘が一緒とはいえ、おっさんがナプキンをじろじろ見ているのはなんともばつが悪い。娘は、これこれ、これがいいの、とナプキンをひとつ手に取り、パパこれ買って、とぼくに渡そうとする。待て待て。買うのはいいけど商品をレジまで持っていくのは君だ。娘のあとを追ってお金を払った。心なしか店員さんが微笑んでいる。

 店を出ると、ナプキンの入った紙袋を持って娘がスキップする。どうやら嬉しいみたいだ。もうすこしゆっくりしてから帰るか。途中の喫茶店でオレンジジュースを奢ることにした。娘はジュースを一口飲んでは、紙袋の口を開けて中を覗き込み、にんまりしている。何がそんなに嬉しいのだろう。聞くと、小学校の授業で、女の子がやがて大人の女性になっていくことを教えてもらったと。そしてそのときにナプキンのサンプルも貰ったという。そうか。それで同じナプキンを見つけて、これこれと言ってたわけか。これから自分がもっと素敵な大人の女性に変わっていく。ナプキンはその象徴だったんだな。胸がじんわり温かくなった。女の子ってこういうふうにして成長していくんだ。男兄弟の中で育ったぼくは、ちょっとした発見をした気分だった。

 家に帰ってからも娘はずっとにこにこしている。でも事件が起きた。妻から「パパに何買ってもらったの」と聞かれた娘は、これだよと得意そうにナプキンを見せたのだが……。「あんたまだこんなのいらないでしょう!」と取り上げられてしまった。妻にしてみれば、どうしてこんなものを、しかも自分じゃなくてぼくにねだるのかと思ったのかなあ。娘の顔がみるみるゆがんで、ぽろぽろ涙がこぼれ落ちる。あいたたた。なんとかしてなぐさめようと思うのだが、かける言葉が見つからない。娘は自分の部屋に閉じこもってしばらく泣いていた。

 もうこのくらいにしておくか。字がぼやけて…


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