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ばあちゃん

ばあちゃんと久しぶりに顔を合わせた。その報告をされた昨夜からずっと楽しみだった。ばあちゃんに会えるのをワクワクしてた。超普通に「まじか!楽しみ!」と返信すると「本当におばあちゃん子だね」と母に言われた。そう言われたのは初めてだ、そうなのか? と疑うね。

おばあちゃんと会うたびに、なぜか人の生き死について考えることがある。

人に情を持てば持つほど、その人を失うときの辛さは計り知れないものになる。と、学んだ。人の葬式で涙が出なくなったのは、「人は死ぬ」と受け入れるようになってからだ。

園児のとき 台湾の葬式に連れて行かれた。知らない方だけど 血筋のある方の棺桶がそのまま埋葬されるのを ジュースのストロー咥えながら遠くで眺めていた記憶が鮮明に残っている。

小5のとき 父方の母(祖母)が亡くなり、よく分からないけど泣いた。周りが泣いてるから泣いた。よくわからんが 火葬されて骨壺にばあちゃんを移す形式に これがおばあちゃんなのか? と不思議で堪らなかった。ただ 周りにつられて泣くばかり、墓地に着く頃には父親に抱かれて寝ていた記憶がある。

高3のとき 幼なじみの母親が亡くなった。引退試合を目の前に、お葬式に行けなかった。その後何回か 夢に出てきた。夢で会うたびに涙が出てきた。そのままポッカリと穴が空いたままになった。いつか挨拶に行かなきゃならないな、と思いつつ 夢にも出てくる頻度は減った。

20歳のとき 幼なじみが亡くなり、夜行バスで向かったお葬式では、なぜか涙が出なかった。おばあちゃん以上に 悲しいはずの相手の死に、なぜか泣くことも出来なかった。不思議だったが、それから何ヶ月かして 人生について考えた時、夢溢れる彼女の生きられなかった今を思い、暗闇の部屋で 声をあげて泣いた。その時ようやく友人の死を受け入れた気がする。

当時 親しくしていた方にその話をしたら「事故かあ、仕方ないね 俺もあるんだよね」と言われた。ああぶん殴ってやりたい そう思った。それから暫くして、その人とは縁を切った。期待しすぎたぶん、そんな陳腐な返答にハラワタが煮え繰り返った。

パタパタと身近な人が倒れていく時期のなかで、あまり人を好きだと思いたくない、大切の度合いや数が増えると、それに比例して 失う悲哀が深まる と思った。人と適当に付き合っていくことが増えた。友人にせよ、恋人にせよ、バイト先の同期さえ、淡白な付き合いで繋がった…つもりが、無意味だった。大学時代に出来た友人がとんでもなく好きだ。もれなく全員が真面目で愛深くて 真っすぐだからエールを送りたくなるし、彼彼女らもまた私の生き方に背中を押してくれる、良き仲間。何時間も喫煙所のベンチでサボり続けた冬、深夜のすき家集合の井戸端会議、怒られてんのに全員ヘラヘラしてたら教授も笑い出しちゃったゼミ、どうしようもない集団のくせに学部代表で東京旅行無料で行けた夏、小さいガラスのオレンジジュースに1杯800円とチャージ料1000円掛けちゃう夜、朝から晩まで勉強に明け暮れあった数ヶ月も、暇だなー って遊び飽きたから 簿記3級を独学でやり込んだのに試験飛ぶんだもん、 わたしひとり勝手に受かっちゃったよ、今や 天地ひっくり返って君スーパー出世コースの国家公務員だけどね。

そんなこんな思いながら わたしはばあちゃんを筆頭に、人が好きだと気付く。

うちのばあちゃんは、何も知らない。世の中のほとんど何も知らない。教育というものを1度も受けていない。七人兄妹の長女として産まれたばあちゃんには、その選択は与えられなかった。小学校はもちろん、幼稚園みたいなものさえ知らない。弟妹が学位を得るために、ばあちゃんは働いた。

だから机上の学びの代わりに、誰よりも腰を曲げてきたし、誰よりも鍋を振った。そのくせ、日本に逃げるしかなくなって、じいちゃんと日本に駆け込んだ。言葉も分からないばあちゃんは 手を差し伸べてくれたおばさんを頼りにしたのに、掌返しをされた。 夫婦揃って顎で使われた。

だけど日本語が分からない四子持ちの夫婦は、そこで逃げる術もなかった。食いついた。じいちゃんは子供たちのために 1日中働いていたけど、子供たちはみんなイジメにあった。異国から来た日本語を話せない人間は、虐められた。当たり前だ。皮肉にもそういう時代があったんだから。そして、姉妹弟4人、揃いも揃って虐められた。私の母親も虐められたらしいけど、その話は深いところまであまり聞かないようにしてる。なんとなく、これは暗黙の了解になっている。

じいちゃんは私含めた孫が3人産まれた年に亡くなった。全員を見届けてから逝った。それから、20年以上ばあちゃんは独りぼっちだ。母親いわく、おばあちゃんとおじいちゃんが喧嘩しているところを見たことがないらしい。

これは本当にあった悲劇だけど、まるでこの人の話ではない気がする。だって、なんかいつも笑ってんだもん。会うたびに説教される。「ママとパパを大事にしなさい。」

ばあちゃんは、日本語も読めない。もちろん、書けない。「日本語勉強しておけばよかったなあ」と数年前台湾へ戻ったとき、入国手続きを何も出来ないのを ぼんやりと後悔していたのを横にして、その時なぜか私はひっそりと泣いた。

ばあちゃんは何も知らない。ただ、この人は人を愛することとか ちゃんと働いて頂くお金の有り難みとか 勉強出来ることの尊さを他人の何倍も知っている。なにより、絶対に学べないであろう 愛についてこの人は誰よりも知っている。迫害を受けた身であるからこそ、本物の助け合う愛について身をもって知っているのだと思う。

久しぶりに会うばあちゃんは変わらなかった。主語や述語が破茶滅茶になったり、突然外国語が出てしまうところも、変わってない。名前を余裕で間違えてきて「あーえーあ!」ってまた間違えてくるところも変わってない。異常なほどデカイ笑い声と共に発する「ぷーやおらー」の声も変わってない。母親の携帯で、テレビ電話をする。ばあちゃんと姉妹との外国語の雑談が始まった。途端に おばさんとばあちゃんと母親の目に涙が溢れて一瞬を見逃さなかった。でも、わたしには何故泣いているの分からなかった。聞くこともしなかった。しばらくしてカメラをこちらに向けられたから、「你好 、是」とだけ挨拶する。

好きなわけでも嫌いなわけでもない国だけど、また会いに行きたいね。

数ヶ月前、ばあちゃんに私の好きな人を会わせたらとき、ものすごく喜んでくれた。「彼氏??結婚するの?」って片言に耳打ちされて 「どうだろ、まだかな?」て言ったら「大切にするんだよ」って満面の笑みで教えてくれた。

そんな彼とは、もう別れてしまったけれど、付き合った方のなかで唯一 無条件に私の味方でいてくれた人だった。外見も中身も選択も人生も家族も、イイネ と言ってくれた彼は、私の最大の味方で 最高に大切にしてくれた彼氏だった。そんな自慢の元彼氏をばあちゃんに会わせられて なんだか良かった。と思う。

「結婚するのー?」といういやらしい質問に、ただ私はニヤニヤするだけだった。彼のやらなければならないことvs私のやりたいこと。私は私の人生を選択してしまったから別れちゃった… なんて言えなかった。

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