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天智天皇異伝(三度目の正直)

はじめての晴天

 軽く手を合わして、拝んでいると、曇り空から一筋の光線がさしてきた。
 これは、初めてのことだった。
 以前2回この社を訪れたことがあるが、いずれも曇り空だった。日が差し込んできたのは、今回が初めてだった。しかも、その後はずっと晴れの天気になった。

 ・・・ああ、やっと晴れた!・・・

 正直そんな思いがわきあがった。

 それは、2024年5月2日(木)のこと。
 母と弟と三人の九州旅行のついでに訪れた時だった。当初来る予定がなかったが、ホテルにとまって、その朝、その蒸し風呂に入りながら、ゆっくりしていると、肩にポタリ、ポタリと天井から水が落ちてきた。その水は熱くも冷たくもなかったが・・・

 ・・・来ないのか・・・

 となんだか、誰かがそう言っているような気がした。私以外だれもその時は入っていなかった。そのささやきは、私の脳内現象だった。気のせいと言えば、気のせいにもなるが、やっぱり、行くべきだな。そう思って、予定を変更していくことにしたのだ。
 やっぱり、来てよかった。

 ここは、鹿児島の指宿神社の拝殿の右奥にある、西宮「天命開別命」の社。
「あめのみことひらかすわけのみこと」と読む。

 あまり、聞いたことがないと思うが、これは、天智天皇の和名諡号である。なぜ天智天皇がここに祀られているのか?
 そこには、たぶん、教科書では語れない歴史があるのだろう。
 ともかく、今回3回目の参拝で、天智天皇のお御魂は喜んでおられるように感じてホットしたのだった。

秋の田の・・

 一回目の参拝は、2017年3月29日のことだった。もう今から7年も前になる。最初の指宿の旅は、半分は2007年から始まった不思議な旅(白銀の太玉)のつづき、半分は砂風呂入浴が目的だった。
 飛行機で、鹿児島空港について、レンタカーで指宿に向かった。まず、指宿神社に向かい、手を合わせた。それから、一泊して、砂風呂を堪能して、食事も堪能して、翌朝、また手を合わせて帰途に着いた。
 お参りしているときは、曇り空で、どんよりしていた。お参りした感じもなんとなく、まだまだ・・・という感じだった。

 指宿神社に来る前に、京都の天智天皇陵も何度かお参りしたが、そこは、やはり、きちんと祀ってあるので、空気も澄んでいたし、なんとなくすがすがしい感じだった。魂魄という考えがあるけど、魂は天の霊性、魄は地の霊性とされる。
 京都の天智天皇陵で祀られているのは、魂つまり、天の霊性のように私は感じていた。

 天智天皇陵「山科陵(やましなのみささぎ)」がなぜ、京都山科にあるのか?
 それも謎なのである。
 天智天皇には謎が多いのだ。

 ネットで調べたある情報では、「天智天皇は大津宮で崩御したはずであるが、なぜ山科にあるのかは謎である。 天智天皇は山科で遊猟を楽しんでおり(これは史実)天皇の遺志と言う説、山科で暗殺されたという説、娘の持統天皇が造営した藤原京の真北にあるため国家鎮護のためという説などがある。」とあり、やはり謎のままだ。

 天智天皇は、山科で狩を楽しむことがあったが、そこで消息を絶ったのである。
 後にその沓(くつ)が残されていたので、ここに天皇陵を作ったというのが、有力な説だと思われる。しっかりと祀られているので、すがすがしい霊気を感じるが、ここには天智天皇の魂(天の霊性)が祀られているのではないかと私には感じられる。

 そして、ここ指宿神社、西宮の「天命開別命(あめのみことひらかすわけのみこと)」の社には、天智天皇の魄(地の霊性)がとどまっておられるように感じる。しかも、なんとなく、まだまだ・・・な感じで・・・
 まったく、地元の人にも、ほとんど知られず、忘れ去られてしまってかのような小さな社があるだけだ。

 ここは、また来るべきだ!

 そう思って1回目の参拝を終えたのは2017年3月29日(水)のことだった。

 秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ 
わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ
(秋の田の番をする仮小屋の屋根をおおった苫とまの編み目が粗いので、私の袖は屋根から漏れる露に濡れてしまうなあ。)

 この時の指宿神社の、この西宮「天命開別命」の社には、百人一首の歌のような、晩年の天智天皇のわびしさがあふれているように私には感じられた。

天武天皇陵

 最初の訪問から、2年後、2019年7月26日(金)、再び指宿神社に行ってみよう、という計画を立てた。

 その前に、伴侶は、
「天武天皇陵に行くべきだ。」と言った。
 え!?大丈夫かな?宿敵じゃないか・・・
 私は、少し不安になったが、

「いや、行くべきだ。」と、強く主張した。

「そこにこそ、何かの鍵がある!」
 そう、確信していたようだ。

 それで指宿行きのおよそ10日前(2019年7月15日)に、天武天皇陵行くことになった。

 早朝家をでて、1号線から25号線に抜け、針のドライブインで休憩して169号線で、奈良の天武天皇陵に向かう。
 ほどなく、天皇陵に着く。
 小高い丘の上に鳥居が立っている。奈良は民家の横にこういったものが当たり前ごとく存在している。特に飾り立てているわけでもなく、かといってぞんざいな扱いをしているわけでもない。自然な感じで見守っている感じだ。
 鳥居の前の足止めの柵のところまで上る。お神酒とお供え物をして、祈った。
 祝詞あげ、無心に祈った。
 すると、ドーム状の殻のようなものが現れ、それが心臓の鼓動のようなリズムで、パシャ・パシャ点滅していた。しばらくすると、その光が強くなり、ドーム状の殻を破り、光とともに、何らかのエネルギーまっすぐ天に昇って行ったように感じた。

「和平の時がきた」

 というメッセージが脳裏に浮かんだ。
・・・・これで、何かが解けるかもしれない。・・・・
 そう思った。

 伴侶は感激して、涙ぐんでいた。
「もう後戻りしないところまで来たような感じ。それは言い過ぎかもしれないけど、これで一段落したのでは」と言った。

 この天武天皇のお力がカギとなって、何かの扉をひらいたかのように、指宿に行く直前に、伴侶は、不思議な石が、指宿神社と枚聞神社(ひらきき)にそれぞれあることを、ネット上で見つけてきた。

 どうやら、天智天皇の墓らしい・・・正式な記述ではないが、その可能性があるらしい。それは、石で覆われた小さな場所があることがわかった。

 それは2か所ある。
 指宿神社(いぶすき)と枚聞神社(ひらきき)に一つずつ。

 二回目の指宿訪問のメインはここを訪れてみることだった。さらに言うなら、そこの何かしらの封印を解けないだろうかと思っていた。
 この不思議な石たちを私は「結界石」と名付けた。

「結界石」

 2019年7月26日(金)の日記から、指宿神社と枚聞神社の「結界石」の様子を拾ってみよう。

 どこだろうかと、指宿神社の後ろにある「てんちの森」をさまよっていた。伴侶が社殿の方にあるみたい、とネットで調べた写真をもとに、社殿の方へ戻ろうとすると、広げた両手のひらよりも一回り大きなクロアゲハがひらひらと私の前を進んでいった。それに導かれるように歩んでいくと、赤い柵で囲まれて、神社の結界ようの幣としめ縄でも上から飾られている1m四方の区画の中に石が置いてあった。ここだ!という確信はあった。クロアゲハが導いてくれたのだ。
 まず、とりあえず、戻って天智天皇の社殿で祝詞をあげて、祈った。続いて、クロアゲハの導きで見つけた「結界石」で、祈った。何かチカチカして、天智天皇もすごく喜んでいるように感じた。私も、祈りはうまく通じたと思ったが、なんとなくまだ終わっていない感があった。

 次の枚聞神社へ向かう途中、もしかしてお骨の一部を天武側は封印したのではあるまいか。そういう考えが浮かんだ。先ほど結界石は、何が足りない。何かとつながっていない。なにか大事なものをそちらに持って行ったのではあるまいか。そんな思いが漠然と浮かんだ。

 枚聞神社の本殿でお参りして、本殿裏に向かった。指宿神社と同じような柵で囲まれた1m四方の区画があった。ここにはしめ縄の結界はなかった。祈ろうとした途端、伴侶が、「〇〇(お守りとして携帯しているあるもの)を指宿神社に忘れてきた!」と言い出した。そんなことはないよ、車にあるよ、と落ち着かせ、改めて祈った。
 しかし、伴侶はまだ足りない、と感じていた。

 車に戻って、お忘れ物が車にあることを確認した。落ち着いた気持ちでもう一度「結界石」のところに行って、祈った。今度は伴侶も健やかな気持ちなった。何の抵抗もなかった。何かの封印がとけた証だった。全身にエネルギーが突き抜け、一つにつながったように感じた。
 伴侶いわく、
「やはりあそこに天智の力と呪いの力も封印していたのではないだろうか、封印は解けたけど、100%ではなく、まだ、何か追善供養のようなものがいるのでは・・・まだ少し『妖怪のような』波動がある、」ということだった。

天武天皇のエージェント

 この二回目の指宿訪問のあと、非常に奇妙なことが起こった。
 最近親しくなった友人が、「自分は天武天皇に縁がある」と告げてきたのだ。前の職場で知り合ったその友人とは妙にウマが合い、その後も連絡を取り合っていた。

2019年の10月11日(金)の日記から

「できたら、今日食事しないか?」
 と友人に言われ、私もこれは何か意義があることだと思い、伴侶とともに、誘いに乗った。

 いつもの中華屋で7:30待ち合わせた。バスの都合で少し遅れて友人が来た。
 話は多方面に上ったが、やはり、焦点となる話は天武と天智だった。
 友人は若いころ、韓国に行ったらしい。そこで特に語学ができるわけでもないのに、すいすいと現地の人が案内してくれて、その前後から天武に興味をもったらしい。
 友人曰く、
「天武のことは隠されているものの、ヒントはいくつか散りばめられているという。例えば、神武の東征、これは天武の隠れ物語として語られている。結局、天武は神武と同じく、婿養子だった。だからこそ、持統天皇と合祀されているのだ。」と。

 そうすると、いくつも氷解することがある。
 一つは、なぜあれほど権力を用いて、軍を動かせたのかという点だ。婿養子なら当然それができる。天武としては、自身が新羅?出身ということあるが、これ以上に日本が百済に加勢しては国が亡ぶと判断しての決定だったのかもしれない。

「それにしても、なぜ、このように急速に神霊界で手打ちが行われているのか。」
「それは終わりもしくは禊が近いからだ。」と友人は言う。
(このあと、2020年から新型コロナとワクチンがやってくることになったのは、偶然とは思えない・・・)

 その晩、友人を送って行って、今度は11月4日に友人と伴侶と三人で天武天皇陵・天智天皇陵と伊吹山麓の神社を訪れることにした。

 再び、天武天皇陵、そして天智天皇陵・・・

 続いて、
2019年11月4日(月・祝)の日記から・・・

 友人は、靴を脱いで深々と額づいていた。
 目には感激の涙のあとが見える。
 私たちも友人にならって、靴を脱ぎ、平伏していた。
 そこは、天武天皇陵の鳥居前の一段さがった玉砂利の敷いてあるところだった。
 正座をして二礼二拍手、合掌にて感謝申し上げ、最後の一礼をしたあとのことだった。私たちにとっては三度目の天武天皇陵だったが、このようなお辞儀をしたのははじめてだった。

 天武天皇陵に着いたのは、7時ごろだった。道中友人は、飛鳥は彼にとって禁足地で、若いころ一度訪れたきりで、それ以来いったことがないと語っていた。神妙な面持ちで、今は罪人として連行されている感じだ、とも言った。天武天皇陵に近づくあたりでは、首を抑えだした。どうも首が痛くなって来たらしい。天皇陵は小高い丘にある。
 車から降りる前に、友人は白いネクタイをした。たぶん友人も私と同じようにめったにネクタイをしないタイプであるが、それだけ友人は気を引き締めている証だった。
 私を先頭に3人で向かった。友人は神妙な面持ちで静々と階段を上っていた。つい最近、神職の研修を終えたこともあってか、両足交互に登らず、片足ずつ片足ずつ先に前に上がっていた。友人は神職の資格を取得したばかりだった。

 正面の鳥居の前まで、さらに7段ほどの小さな階段を上り、そこでご挨拶をして、友人の音頭で祝詞を奏上した。後から聞いたところでは、その時、体が震えに、震えて階段から落っこちそうだったらしい。
 また全体の重たい空気で圧しられていたらしい。伴侶は、なぜか、感激のあまり泣き出した。私も御魂が非常に喜んでいるように感じた。
 その時、わたしは「こと・なる(事成る)」という言葉が脳裏に浮かんだ。友人も何かしら受け取るものがあったようだった。
 奏上しおえて、いつものように裏にまわった。私たちは裏が本当の場所であると感じていたからだ。

 裏には、胸の高さより低い小さな黒い鉄格子の扉がある。
 そこまでに行く間、友人は両手を仰向けて、何か大きな玉を持っているようなしぐさをしていた。時に太極拳のように手を動かしいた。何か大きな気の塊を感じているようだった。そこでも三人で祝詞を奏上した。友人は霊的に何かを感じつつあり、それをしっかり受けようとしていたので、今度は私が音頭をとって祝詞を奏上した。大きく力強い気の塊を感じて、友人は涙ながらに感激していた。

 奏上し終えて、
「ここの場所はすごい、大峰の山奥のようだ、全然違う、」と言っていた。
さらに、「もうここで額づいて挨拶したい気分だ、」とも言った。
 そこは雑木林で額づくと泥だらけになるので、友人は私たちに遠慮して思いとどまったようだった。

 表にむかう道へとぐるっと、まわって裏の雑木林を抜けると、
「あーここは全然違う、ほんのちょっとの距離なのに、気が全然違う、」と友人は言った。左回りに一周して再び正面の鳥居前の七段の階段下にある玉砂利のスペースに出た。

「ちょっと、靴脱いでご挨拶させてもらっていいですか、」といっておもむろに靴を脱ぎ、正座をした。
 私たちも友人にならってそうした。友人は感極まっている感じだった。
 後に立ち上がりながら天武天皇陵にむかって右手のひらを向け、
「ここは本当にお屋形様――、とひれ伏す感じです、もうこれからどこにいっていいような、ドコデモドアならぬ、ドコデモカギをいただいたような、」とも友人は言っていた。
 何かしらのメッセージも受け取ったようだった。

 空は綺麗に澄み切っていた。これほどの青い空は秋でもめったにない。そこで記念の写真を撮って、私たちは飛鳥の地をあとにした。

 友人いわく、飛鳥の由来、安宿(アンシュク)であり、それが転訛したもので、それを「飛ぶ鳥」と当てたのは、遠くよりここに来たことを示すためだそうだ。後にウィキペディアで調べると、友人の言う通りの説が載っていた。

 天武朝に、吉兆を意味する朱鳥を元号とし(686年~)、造営した浄御原宮に「飛鳥」と冠したんのが始めとする説。

 天武は日本に革命をもたらし、新しい時代を切り開いた。飛鳥という地名はその象徴と言えた。なぜ、友人はそこが禁足地だったのだろう。時がくるまで、その能力を封印するためだったのかもしれない。

 天武天皇陵を出たのは7:40くらいだったが、天智天皇陵に着いたのは10:30を回っていた。途中何度も道を間違えた。

 友人は、「方違えだ、」とも言ったが、
 何かに邪魔されていたのか。
 あるいはトップ会談は無事成立したものの、納得しない部下たちは大勢いたのかもしれない。途中信号が黄色から赤になるところで警察も待ち構えていたところもあった。あやうく渡るところだった。
 友人は、友人でまるで脱魂していたように、地に足がついていなかったので、方向音痴の私は、いろいろまよってしまった。グーグルどおりに行くと有料道路を優先したりするので、下の道でいったのだが、それでもいつもは間違えないような間違いをした。およそ3時間ほどの「方違え」を経て、天智天皇陵に着いた。

 最初この神事を友人に持ちかけたとき、天智天皇陵に行くことに少なからず恐れをいだいていた。だが、何の障害もなかった。友人もそれは意外だったらしいが、神事のメインは天武天皇陵でほぼ終わっていたのだろう。天皇陵の鳥居の前で再び私が祝詞を奏上した。

 友人は祝詞の途中で、
「お許しください」と唱えたところ、
「諾!」と返ってきたらしい。

 空は青々を透き通り、天皇陵の背後の雲は何か龍の気配が感じられた。実際、写真をとると龍の顔が写っていた。参拝を終えて、帰途の参道で来るときも抱えていた気の玉(ドラゴンボールのようなもの)が随分と軽くなったと言っていた。
 何かしらの玉鎮めをしてきたのかもしれない。しかしながら、天武は天智側からは、まだ反逆者扱いであることを感じ取り、そこはすこし納得いかない感じではあった。
 そのあと、友人の所領の伊夫岐神社でお参りした。

令和の手打ち

 友人の後日談によると、この神事は、壬申の乱を逆に辿るルートであったらしい。天武天皇陵、天智天皇陵そして伊夫岐神社。友人が脱魂状態で、私が方向音痴なので迷いに迷ったのは、「方違い」であったのかもしれないが、それは壬申の乱の戦いの転戦を表していたのかもしれない。
 最後に行った伊吹のあたりは、天武が幼少の頃過ごしたところらしい。まさに、天武の最終点から遡り、その出発点にもどったことになる。

 友人は天武天皇より「玉」を授かって、天智天皇陵に「持っていけ」と言われたらしい。
 これにて、天武のエージェントと天智エージェントとによる「壬申の乱」の手打ちが行われたことになるのだろう。

 考えてみれば、実に不思議なことだ。
 私たち二人で勝手に、密かに神事といって行っていた天智天皇の御魂の巡礼の旅の最後の締めを手伝ってくれる友人が現れるなんて!
 しかも、それが、天武天皇のエージェントとは!
 まさに、事実は小説より奇なり。
 まったく思いもしなかったことだ。

 友人も私たちが指宿を訪れた頃、導かれるように、九州に行き、開聞岳に登り、枚聞神社に訪れた。その時、ここは天武の所領だったことを実感したらしい。
 友人いわく、天武は海を自由に行き来する海軍を所有していたという。
鹿児島、淡路島、神戸、伊勢湾が天武天皇の重要拠点であり、アジトだったようだ。そこを縦横無尽に行き来できたようだ。海軍の司令官だったのだ。

「大海人皇子(おおあまのおうじ)」
という名の通りだ。彼は大海原を治めてきたのだ。

 よく、天武天皇は神出鬼没だったと言われるが、海を利用していたのだとしたら、うなずける。海を縦横無尽に利用したのではないか。
 歴史書はあまり読まないが、大海人皇子と海軍のことを述べた書物ってあるのだろうか。もしかして、これは歴史の盲点なのかもしれない。

 壬申の乱を有利に運ぶだめ、天智天皇を殺すことなく、拉致して指宿に幽閉し、挙兵したということは十分に考えられる。あるいは、説得するために拉致したのかもしれない。説得に応じないために、やむを得ず、幽閉したとも考えられる。海を利用すれば、指宿に幽閉するのだって、そんなに難しいことではない。
 真相はわからない。

 しかし、私は天智天皇の魄は指宿にとどまっていた、ということを深く感じる。友人は枚聞神社を天武天皇の所領だと感じたらしい。天武天皇の名は隠されているものの、確実に天武天皇の神社だと確信していた。しかし、本殿奥の「結界石」あたりは、近づけなかったという。

 ひるがえって、私は枚聞神社に入ったとたん、ここは敵地だ!と感じた。
 そうしたエージェント同志が、友人となり、それぞれの魂の巡礼の最後の場所を手打ちして終える、というのは、なんとも出来過ぎた話だ。
 しかし、これは本当に現実に起こった話なのだ。

天智天皇の薬指

 この天武天皇エージェントである友人と天智天皇エージェントの私と伴侶の三人で神事を終えたあとで、近江神宮HPに以下の奇妙な文章を見つけた。

崇福寺創建の縁起と金仙の滝(近江神宮HPより)

 滋賀里の西方山中にある崇福寺跡の谷筋に金仙滝と呼ばれる小さな滝と霊窟があります。この地は崇福寺建立にまつわる有名な伝説が残る地でもあります。『今昔物語』『三宝絵詞』などに以下のように伝えられています。

  天智天皇はかねて寺を建立したいと考えておられたが、そのことで願をかけたその夜、夢に一人の僧が現われ「乾の方角(北西)にすぐれた良い所があります」 と告げた。目を覚まして外をご覧になると乾の方角に光が輝き、あたり一帯を明るく照らし出していた。翌朝使いを遣わして光を放っていた山を訪ね、奥に分け 入っていくと深い洞窟があり、怪異な老人がいる。天皇は自らそこに行き老人を訪ねると、翁は「ここは昔仙人の住んでいた霊窟です。さざなみや長等の山 に・・・」といって消え失せた。そこで天皇はこここそ捜していた尊い霊地だと考え、ここに寺を建てることに決められた。
  翌年正月に崇福寺が建立され、丈六の弥勒の像を安置したが、その開眼供養の日、天皇は自ら右の薬指を切って石の箱に入れ灯籠の土の下に埋められた。寺を建 てるための整地の際、地中から三尺程の宝塔が発見されたが、昔アショカ王が多くの塔を建てた、そのうちの一つだと知らされ、いよいよ誓願を深め、そのしるしに指を切って弥勒に奉ったものである。
 後の時代になり、その寺の霊験まことにあらたかであったが、一般の人にはなかなか近寄り難かった。寺の別当が「この寺に人が参詣しないのはこの指のせいだ。掘り出して捨ててしまえ」といって掘らせると、たちまちに雷が鳴り風雨が激しくなった。掘り出したその指は、今切ったばかりのように鮮やかに白く光っていたが、まもなく水のように溶けて消え失せてしまった。その後、その別当はほどなく狂って死んでしまった。その後は霊験もなくなっていったという。

 このHPの記述では、「後の時代」としか書かれていないが、それはいつのことだったのだろうか。
 もしかして、この薬指は消えたのではなく、枚聞神社の「結界石」の下に埋葬されているのではないかと思う。なんとなく私は、そんな気がするのだ。

 2回目の指宿訪問で、指宿神社のあとに、枚聞神社にいき、「結界石」に祈りをささげたとき、伴侶の言葉で、
「やはりあそこに天智の力と呪いの力も封印していたのではないだろうか、封印は解けたけど、100%ではなく、まだ、何か追善供養のようなものがいるのでは・・・まだ少し『妖怪のような』波動がある、」ということだった。

 薬指を切ってまで、祈願したものを掘り起こされて、不本意な場所に埋められたとしたら、その「結界石」のあたりは、少しばかり妖怪のような波動があっても不思議ではない。

 でも、それも昔の話。
 天武天皇エージェントも現れ、天武天皇陵からいただいた「玉」を天智天皇陵で納めたことで、神霊界の「手打ち」がなされた今、枚聞神社奥の「結界石」も晴れ晴れとしたお気持ちであろう。
 3回目の指宿神社の参拝で、曇り空から一筋の光線がさしてきて、その後ずっと晴天だったことがそれを証明しているように私は感じた。


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