事実/事実認定/優しい嘘

※おことわり※

 拙稿『犯罪者呼ばわりという人権軽視』の補足的な内容を含みますが、ジャニー喜多川氏および事務所の件は話題の中心ではありません。

 特に最後においた本題は全く別の社会問題についてです。ご了承ください。


1◆“事実”とされる事実認定

 前稿はとても多くの方に読んで頂き、正直なところヒヤヒヤしたものの、おおむね好意的に評価して頂いた。まずは御礼申し上げる。
 もちろん批判的な声もあった。中でも『事実と事実認定』辺りをついたご指摘は鋭い。前稿で述べた両者の対比に、論理的な不備があるのは確かである。現実的にはこうするしかないと考えているが。

 まずはそこを補足していく。

□理屈の上では事実じゃない

 前稿では〈事実と事実認定〉を並べた上で、『刑事裁判の判決=事実/対策チームの報告書=事実認定』よう﹅﹅対比した。

 しかし現実を見れば明らかなように、刑事裁判だって間違うことがある。
 そういう意味では裁判の判決も『事実とイコールではない、事実認定だ』と呼ぶことは可能だ。
 ──理屈の上では。

 とはいえ、人間はタイムマシンを持っていないし過去を見る魔法のような技術も無い。だから厳密な意味での事実を後から知ることは(できる場合もあるが、ほとんどの場合では)不可能だ。
 実に悩ましいことだが、この不可しり知性にくさを前提に対処することになる。

 犯罪はある。被害者がいる。野放しにはできない。
 刑罰さばきは人権制限だから無闇には行えず、その根拠として何らかの形で“事実”が必要だ。
 厳密な事実を把握できないならば可能な限りそれに近い形で事実認定するしかない。だから『一番マシな事実認定』を“事実”と扱い、これに基づいて犯罪者を裁く。
 ──現実的にそうするしかないから。

□現実的な諸問題

 “一番マシ”とは書いたが、実際の司法が完璧でないことは先述の通りである。
 理想的かんぺきな司法とは、

  • 冤罪を1件も出さず、かつ

  • 全ての犯罪者に漏れなく適切な罰を与える

ものだろう。可能ならこれが良いに決まっている。
 ……ただ、誤りと漏れを文字通りゼロにするのは現実的に不可能だ。

(もちろん『仕方ない』で済ませるべき話ではなく、ゼロに近づけていくべきだろう。袴田氏の件などからも再審請求まわりの制度見直しは急務に思える。ただし本稿では扱わない)

 事実ではない・完璧な事実認定でもない。にも関わらず刑事裁判を“一番マシ”とするのは、その手続きに定められた厳格性と透明性(※1)ゆえだ。
 物証を重視することで見間違いなどを排除したり、威圧などで自白を引き出すことを禁止したり、偽証には別途重い罪を設定したり……事実ではない判断材料を除外するための手続プロセスは数多い。時に面倒にも感じられるほどだ。かかる時間も長い。
 この手続き自体も刑事訴訟法などで厳格に定められており(※2)、かつ審理が原則公開で行われることなどが“一番マシ”を担保する。

 繰り返しの強調になるが欠点はある。
 現在の刑事裁判制度よりも理想の司法に近い(=冤罪を生みづらく捕捉率の高い)仕組みがあるならば、その仕組みによる事実認定を“事実”扱いするべきなのだろう。
 ──理屈の上では。
 現実にそんな仕組みは作られていないので、今のところ選択肢は無い。

※1)透明性:『全てが誰からでも見える』という意味ではないし、そうでは困る。『然るべき監査ができるよう証跡を残すルールがある』程度の意味。

※2)手続き:捜査や訴訟のルール自体が守られない懸念もあるにはある。不正は常に一定のリスクだ。が、そういった手続き自体が定められていないよりはずっとマシだろう。
 対策が無ければ、どう考えても不適切な判断材料──非公式に被害を訴えている人のとか──にまで左右されるのだから。
 そんな認定手順は人の人権を制限する根拠として危険すぎる。


2◆身近に溢れる事実認定

 いくら厳密な捜査等を踏まえていても『事実とイコールとは限らない事実認定を、他にどうしようもないから“事実”として扱う』ようなスタンスに、なんとなく嫌な印象を抱く人は少なくないだろう。
 『はっきりした事実が欲しい』といった欲求は客観性に基づく合理的なものだ。

 しかし客観性に頼ることが難しい判断も珍しくない。実際のところ現在の社会は多くの場面で事実認定にっている
 あまり意識しないかも知れないし……意識したくないかも知れないが。

 以下に幾つか例を示そう。

□法の領域(例1:年齢基準)

 例えば契約について。
 日本に限らず多くの国が、子供にも人権を保障し尊重している。にも関わらず子供らは自身の判断だけで法的な契約を結ぶことが認められていない。
 解禁せよと言いたいわけではない。目的には未成年者の保護も含まれるだろう。

 しかし、国や地域が定めた年齢に達することで事実として何か変わるだろうか。少なくとも『誕生日を迎えた瞬間に判断能力や責任能力が目覚ましくレベルアップする』なんて経験はしない。
 充分な判断力や責任感を備えた個人は未成年の中にもいる。逆もまた然りだ。

 つまり『大人には法的判断能力がある/子供にはない』は、『ある/ない』という事実ではなく、『ある/ないこと﹅﹅にす﹅﹅』という事実とり認定きめである

 こうした取り決めは現代社会の様々な所に存在する。契約能力と似たものとして、参政権(選挙権・被選挙権)も同様の年齢基準だ。

 規定の適切さについてはここでは踏み込まない。
 地域や時代によっても最適は変わってくるだろう──実際に日本でも、成年とみなされる年齢が変更されたように。

民法(成年年齢関係)改正 Q&A
- moj.go.jp

 しかしそれでも、〈事実ではなく事実認定に基づくこと〉は今後も維持される可能性が高い。
 (個別には他の要因もあるにせよ、一般に)事実の不可しり知性にくさゆえに

□法の領域(例2:事前の試験)

 今度は自動車の運転を例に取ろう。
 そこには多大な危険を伴うから、安全に運転できる能力がある人しか運転してはいけない。当たり前のことだ。

 では安全運転の能力とは? その事実とは?
 飲酒をすればその能力が著しく下がるように、眠気や疲労によっても低下する。逆に元気が良すぎても不注意になるかも知れない。
 これら全てを把握しなければ──しかも時間と共に変化するものだから、把握し続けなければ──事実ベースでの運転能力評価はできない。

 ここでも『事実の把握は現実的ではない・よって何らかの事実認定を“事実”扱いする』ことになる。

 現在の日本では運転の可否は免許制であり、事前の試験や講習によって発行される制度になっている。
 『試験をパスした』という事実から『安全運転ができるはずだ』という“事実”=事実を蓋然的に導きだしているわけだ。

 痛ましい交通事故などが起こる度、『認定基準を厳しくせよ』といった議論は出てくる。それ自体は妥当なものだろう。
 例えば……今より厳しめの認定基準としてはこんなものを考えうる。

全ての運転手は、運転を始める度に毎回、所定のテストを受けなければならないものとする。

厳しめな認定基準の例

 交通事故が減る可能性はありそうだ。少なくとも酒気帯び運転は減らせよう。

 もっとも、筆者の想像ではこれを支持する人は少ない。『そんなの不便すぎる! ありえない!』と感じる人が多いように思う。
 しかしこの予想が外れていて大多数が支持するなら、もしくはもっと良い感じに不便が少なく実効的な基準なら、法制としては可能だ。

 民主主義国家なのだから、しかるべきプロセスを踏んで主権者が認めれば成立可能性はある。その運用に多大なコストがかかるとしても、その負担に合意が形成されるなら。
 『取り決め』という言葉を使ってきたように、事実認定は人が選択し、合意し、約束するものだ。変える余地がある。

 一方で事実は──および事実の不可しり知性にくさは──変えられないことが多い。少なくとも短期的には難しい。
 安全運転の能力で言えば、SFの世界にあるような脳内チップ(ドライバーに埋め込んで状態をモニターする)でもあれば把握できるのかも知れないが……技術的にも倫理的にも、今は不可能と言ってしまえるだろう。

 だから、一見曇りなく真っ当に見える次のような主張も、どういう意味で“事実”と言っているかは問う余地がある。

事実認定で決めるのは良くない。
ちゃんと事実に基づくべきだ。

一見すると隙の無い主張

 上でいう“事実”が、もし人に知りうる限界を超えた水準を求めている(※3)なら、これは実現性の無い(何も決められない)机上の空論である。

 逆に以下は、一見乱暴な主張に思えるが──

もうこれ以上は本当のことなんて調べようがない。
あとは私たちで決めごとを作ってその通りにしよう。

ここだけ切り取ると炎上不可避な主張

──これはこれで、刑法のプロセスに則っているならば/民事では当事者同士が納得しているならば、充分な合理性と正当性があるだろう。
 というか、このような決めごと自体が不当だというなら(※4)『じゃあどうするのさ』と問い返すしかない。

 掴めない雲を掴もうと足掻いてる間にも、時間は容赦なく流れてしまうのだから。
 今後も我々の社会は(何らかの)事実認定に依って回っていく。

※3)人に知りうる限界を超えた水準の事実:例えば有害物質の量や濃度について、『検出限界未満』という調査結果に『ゼロじゃないんだろ』と返すような難癖。
 それはそうだけど、だからどうした。

※4)決めごと自体が不当:例えば刑事裁判の判決について、『冤罪も取りこぼしもあるんだから、有罪判決が出ても犯人とは限らないし、無罪判決が出たからって犯罪者じゃないとは限らない』と絡むような難癖。
 それはそうだけど、じゃあどうしろと。

□日常の領域(優しい嘘)

 ここで一旦、頭を切り替えて頂きたい。
 後半への前置きとして、法や制度とはかなり違った議論を挟む。気遣いや優しさといった対人コミュニケーションの話だ。

 かなりふわふわと臨機応変な話になる。正解などないし、例示はあくまで例(そういうこともある)だ。

Aが店員として働いている店に、Aの家族であるBが客としてやってきた。
AはBを家族ではなくお客様として接した。

シチュエーション例1

CはDを激しく嫌っている。
しかしDが何らかの理不尽に晒されており、それがCには解決しうることだったので、日頃の恨みを一旦忘れて手を貸した。

シチュエーション例2

 上のようなケースで〈事実と事実認定〉を考えてみると、次のことを指摘できる。どちらも当たり前ではあるが。

  • 例1の事実:『客として訪れたB』は間違いなく『Aの家族』である。店では他の客と同じように接しても、家族関係が無くなるわけではない。

  • 例2の事実:『困っているD』と『Cが嫌うD』とは同一人物である。いきなり嫌悪感が消えたわけではない。

 そのような事実を一旦棚上げにして、お客様または困っている人する﹅﹅事実認定に基づくわけだ。
 こうした対応は法などに規定されているわけではないが、やはり日常に溢れている。

 その動機は様々だ。色々ありえるし1つとも限らない。
 例1は店の評判の為でもあるだろうが、ABの家族関係を知らない他のお客様への気遣いという側面もあろう。
 例2はCの正義や倫理、もしかしたら宗教的動機もありえる。もちろん特に理屈のない素朴な優しさの発露かも知れない。

 ──〈善意に基づく事実認定〉。

 遅くなったが、本稿の主題はある社会問題で、その背景には恐らく善意がある

 恣意的な事実認定は、時として事実を完全に無視する。
 丁度シーズンなのでハロウィンを例に取ろう。子供がお化けの仮装でやってきたら、ノリの良い大人は大げさに怖がってあげたりするものだ──事実としては人間の子供であっても、ここではお化けであるという事実認定に基づいて。

 明らかに事実とは異なるが、これ自体は問題ではないだろう。コミュニケーションの潤滑剤にもなりえる。
 ……但し、『事実ではないこと=事実認定であること』をゆるがせにしない限りは。

 その前提が崩れ、優しい事実認定が事実を塗り替えようとしている。
 そんな社会問題が、現実にある。


3◆事実を蝕む﹅﹅﹅﹅﹅事実認定

 あるスローガンが問題を象徴している。

Trans woman is woman.
トランス女性は女性です。

トランスジェンダーやその支援者の主張

 ここでいうトランス女性とは、男性の身体に生まれついたものの心は女性である──そう表現される──人のことだ。

□背景と転機

 トランス女性に限らず、それを含むマイノリティは、様々な蔑視・軽侮に晒された。人としての尊厳を認めないような、いくらバカにしても構わないような。
 そういう扱いをする人は今でも居るし、また今より公然と行われた時代も確かにあった。

 もちろん当事者は傷ついただろう。そこに共感し同情する支援者(当事者以外)も数多い。
 そしてトランス女性の場合、『女性としての扱い』を望む声があった。

 恐らくは(筆者の理解では)そういう経緯から生まれたのが先述のスローガン。『トランス女性は女性です』。

 これを事実にしかねない動きが世界のあちこちで──日本を含めて、起こっている“女性”というカテゴリーの法的な境界が引き直され、その中にトランス女性が含まれかねない議論が、大真面目に。

 ──ここで最初から述べると余りに長くなるので、トランスジェンダリズムとその周辺の全体像は割愛するが、これまでご存知なかった方は是非とも両方﹅﹅意見を聞いて判断して頂きたい。

□事実かどうかは別として

 それがスローガンである限りは──すなわち『トランス女性にも優しさをもって接しよう』という事実認定なら──喜んで支持しよう。犯罪でもなんでもない服装や性の好みは蔑まれるべきではない。

 例えば、性別によって分けられていない公共の場にトランス女性がいて、その人の女装が極めてつたないとする。『どう見ても女装した男性にしか見えない、美しくも可愛くもない』、そのような印象を抱いた場合。
 その印象をストレートに伝えるのは(相手との関係にもよるが、一般的には)無礼だ。言われた側が怒るなり悲しむなりすることは想像できる。気遣い溢れるコミュニケーションとは言い難い。

 嘘をつけとは言わないまでも、本音を伏せるぐらいの気遣いは求めて良いように思う。その程度のコストは対人関係においてはどこでも(相手が明らかな女装者でもそうでなくても)必須と思われるからだ。
 誰が相手でも必要になりうるコストさえ支払いたくないのであれば、それは最初から相手を尊重する気がない(または余裕がない)のだ──筆者にはそう感じられる。

□その気遣いとは別として

 が、だからといって、このスローガンの内容は(客観的な)事実ではない。(合意された)“事実”でもない(※5)。
 それは(ここまで長々と述べてきた通り)全く別の話だ。

 稚い子供が扮したお化けを怖がってあげるのと似たような話だ。心無い言葉に傷つけられる機会の多い人たちに、更なる傷を与えないようにとの気遣いである。

 恩に着ろなどとは求めないが、子供はお化けではない。
 その仮装がどれほど巧みであっても。もしくは自身をお化けだと信じ込んでいても。更にはその状態から自ら脱せないのだとしても。
 事実として、子供はお化けではない
 事実認定としてお化け扱いすることがあるとしても。それが子供の気持ちを慮る優しさだとしても。それが尊い善だと仮定しても。
 それら全てと無関係に、事実と事実認定は独立べっけん

以上

※5)合意された“事実”:例えば性同一性障害特例法は、運転能力の例に似て把握が難しいために事実とは言い切れず、優しさ──悪く言えば同情ともいえるが──にも基づく事実きめ認定ごとの類だ。
 但しこの決めごとは『トランス女性は〜』のようなスローガンではない。私人しじんかんの口約束ではなく、国会という正当な民主的合意プロセスを経て明文化されている。よって既に優しさ・気遣いの問題ではなく、『特例法に基づいて戸籍変更した元男性は女性である』ことは合意された“事実”にあたる──法を尊重するとはそういうことだ。

Twitterだと書ききれないことを書く