レインボーブリッジを時系列で並べてみた
首都高は、1962年の開通から60年以上の歴史があります。その中でもレインボーブリッジは、比較的歴史が浅く、新しい建造物です。とはいえ、1993年の開通から、27年が経過しています。
最近、国土交通省の自動運転レベル3の承認を得たレジェンドが話題ですが、1993年のレジェンドはKA型で、クーペモデルもありました。
なんだか、バブルの香りがプンプンですね。
話が脱線しましたが、レインボーブリッジは、芝浦と台場を結ぶ橋になっています。ですので、台場が無いと作る意味もあまりない橋となっています。
今や、台場は観光地となっていますが、台場はもともと大砲を立てるための基礎であることは有名ですね。
写真は、1961年から1969年にかけての、国土地理院が提供する航空写真です。本当にただの大砲台(台場)があるだけですね。
これは、1974年から1978年の、台場で、これも国土地理院が提供する航空写真です。なんとなく現在のお台場埋め立て地の形が見えてきました。
ただ、観光地と言うよりは材木を扱う木場ですね。まだ湾岸線も未開通ですね。1976年に東京港トンネルが開通することを考えれば、ここに湾岸線が通る直前の写真であることが伺えます。
写真は、1979年から1983年のもの、これも国土地理院の提供する写真です。東京港トンネルが完成しているのが、見てわかります。そして、木場が半分になっています。そして泥が凄い、大雨でも降ったのでしょうか。
島中央の、首都高にかかる橋は、晴海・お台場クロスロードのかかる部分と思われます。歩道橋はまだですが、車道はこの頃から。
1984年から1986年の写真で、国土地理院より。
ただの公園で、野球のグランド?のような扇型の土のエリアがあったり、木場からかなりの変貌をしたように見えます。1984年に臨海副都心と有明が開通し、新山下(横浜)→K1・横羽→東海JCT→B・湾岸→湾岸・市川(千葉)までが、つながります。当時湾岸線は、湾岸・市川から東海JCTまでで、横浜方面は、K1・横羽だけでした。
写真は、国土地理院からで、1988年から1990年のものです。
平成目前ですが、工事が着工しています。1989年にベイブリッジ(横浜)が開通した頃のものではないでしょうか。首都高のアイコンとなる2つの大きな橋は、同時に作られていたようです。デザインが似ているのはこのせいか?
2007年の航空写真と、先の写真を重ねてみました。
人工海岸をはじめ、大型モール、マンションなどが立ち並ぶようになりました。1993年には、羽田空港のターミナルの位置が変った年でもあり、K1・横羽の空港西(旧空港)ランプから、B・湾岸の空港中央ランプ付近へと変わります。
そのため、従来まではC1・都心環状から、浜崎橋JCTを経て、K1・横羽というルートをとっていたものの、湾岸へ向かう道が必要でした。
11号・台場線がレインボーブリッジを通る路線ですが、これが無い場合、江戸橋JCTから、9号・深川線を経由し、辰巳JCTよりB・湾岸線に出るルートをとらなければなりません。遠回りすぎるので11号・台場線を作る必要があったのです。
その後1994年に、鶴見つばさ橋が完成し、湾岸線が横浜と東京を結びます。
60年の歴史を持つ首都高ですが、今の骨格となる形状ができあがったのが、たった26年前のことといえるでしょう。時代も昭和を過ぎ、平成になった頃です。
今では、用地の問題で、C2・中央環状線や、外環など、地下に道路を通すので、こういった航空写真で時系列を追いかけられないのが悲しいポイントです。そういった部分に時代背景が見え隠れするといえば、そうなのですが。
物ができていく姿を見るのは、変化が見えて楽しいものです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?