片山貴晴

片山貴晴

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個人としての私と、曖昧な境界の自分

雨の中、消防団の訓練が行われた。平日の20時から。自分のなかで、めんどくさくて行きたくない自分と、訓練があるなら行かなければ、という自分がいた。前者はインディビジュアルな自分であり、後者は消防団としての自分。後者の場合、自分は私の体の中にとどまっていない。自分という存在は自分が思っているほど強固なものではないのではないか。強固というのは境界のことである。自分と世界、自分と他者の境界はずっと曖昧であるということに気づいて、そのことにもっと注目して毎日を過ごすと、自分の考えはどの

    • 対話は相手の声に真剣に耳を傾ける

      人の気持ちは100パーセント完全ということはない。 人の気持ちは変わるんだと思って感動した。 人の気持ちが変わるということに心を動かされた。 それによって僕は対話のもつ力を実感し、対話するという行為を信じられると思った。 この気づきを得たのはNHK「クローズアップ現代」2016年1月19日に放映された“最期のとき”をどう決める〜“終末期鎮静”めぐる葛藤〜を見たからだ。その回の取材対象者のひとりのALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者は、最終的に人工呼吸器を装着することに決めるが

      • 無関心さについて

        無関心さについて。物語の中心人物の収容所司令官の一家は、アウシュビッツ収容所の隣の家に住んでいる。妻はそこでの暮らしを夢に見た暮らしと呼び、美しい広い庭園を作りあげた。彼ら、とくに妻の関心は自分たち家族の生活にしかない。そしてその暮らしがずっと続くと信じている。ここが僕がこの作品で一番おもしろいと感じたポイントだ。彼女はアウシュビッツ収容所だけでなく、そこにある生活が続いていくことを何も疑わない。翻って映画を観ている自分はどうか。たぶん僕も今日の次に明日が来ることを漫然と信じ

        • #スケッチ_鈴鹿峠とヤマビル

          この前、鈴鹿峠を走って越えた時、ヒルに足を吸われて嬉しかった。靴の履き口に違和感を感じて見てみると、ナメクジのようなぬらっとした生き物が靴の端に見えた。 反射的にうわっと驚きながらも、ミミズ? ナメクジ? と単語が頭に浮かんで、いやいやこれがヒルかと納得した。 その日は平地でも朝から曇り空で、家から見える鈴鹿山脈は雨雲に覆われていた。雨も降っていることがわかった。それでも基本的には1号線に沿った歩道を走る予定。復路は亀山市関町の観音山、筆捨山を経由するが、雨雲レーダーを見ると

        個人としての私と、曖昧な境界の自分