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【JOKER 感想】その宿命は笑顔で語りかける

オススメ度 ★★★★★★★

1.主観のスティグマとモダン・タイムス

 私は縁(えにし)を信じている方だ。だから、この映画がこのタイミングで日米同時公開になったのも何かの縁なのだ、と思った。別に消費税とか香港のデモとかは関係なくて、私の職業との関連性だ。私はある意味で、社会的弱者と言われがちな人々と共に生活することで収入を得る職業にある。実際には様々なレベルの家庭層と関わる職業なのだが、私が今配属されている部署は、そのケースが多分にしてある。だからきっと、六年前にこの映画が公開されていたならば、私はきっと「あちら側」の視点でしか語れなかっただろうし、今の私は「こちら側」の視点も(ごく微細だが)あるような気がして、そうしてこの映画を観た。

 まず、この映画を語る指針として、映画の「外」から語ることにしたい。果たして『JOKER』はSNS上で騒がれるほどの劇薬なのか、ということだ。往々にして二つの意見に分かれている。一つは「これは劇薬だ」という意見、もう一つは「いやそうでもない」という意見だ。無論それぞれには更に分派した意見が包含されているのだが、私はフィクション作品を観る度に肝に命じていることがある。「事実は小説より奇なり」そして、DCのヴィランにおける最高峰の存在であらせられるMr.破壊者 ジョーカー氏を取り扱う上でこのテーマを扱うことには、あまりに大きな意味があると感じたのだ。

 コップの水の理論を理解したい。この作品を観て人は言うかもしれない。「この程度の不幸で堕ちるのか」と。一つだけ確かなことは、人が笑顔の仮面の下に涙を湛えきれなくなるのは、既にコップの水が表面張力の限界にある時なのだ。だから、もっと些細なことでも良い。別にガソリンの味を知らなくても、激辛カレーを粘膜に打ち込まれなくても、人の心というコップが限界であれば、オービスに引っかかる程度の不幸ですら心は決壊する。つまり、アーサーが物語冒頭で置かれている状態が心のコップの容量限界ギリギリであったからこそ、その後に悪ガキに誂われただけでもジョーカーになったって不思議じゃない、と言いたいのだ。だからこそ彼は冒頭で、両手を使って無理やり笑顔を作っていた。その笑顔が人の支えになる夢を信じて。愛する母のために。そしてこれから出会うであろう生涯の伴侶との未来のために。

 彼の支えに視点を向ければわかることだが、夢と、家族愛と、恋人、その全てが短期間で完膚なきまでに瓦解した。既に張り詰めている心を破壊するには十分すぎて、その過程を(作品のテーマとしてはあまりに)淡々と描くものだから、本作のハードルが上がっていた人にとっては肩透かしだっただろう。「俺はもっと辛い目にあっている、なのにジョーカーは何だ!」といった社畜根性論の人がいることも頷ける。だが今回のジョーカーは生まれたてだからか、我々に最上級のヒントを与えてくれている。善悪は主観で変わるのだと。そうして悲劇は喜劇に変わるのだと。
 我々が忘れてはいけないことは、フィクションのジョーカーは観ても、この現実世界に数多いる「忘れられた人の足掻き」は観ないということだ。根幹にあるのは貧困だけではない。作品で扱われた貧困や格差社会はその代表格であるだけだ。人は普段、その概念をあまり観ない。それは深淵に根ざした「歪み」。アーサーは、その歪みを直視しようとした。彼はおそらく地頭が良い。感性も豊かだ。だから、その歪みを観て観ぬふりはできないし、何ならその渦中に自分が置かれていることに気付いているし、更に劇中その歪みは先程挙げた三つの支えに波及し、その全ての欺瞞に直面してしまう。

2.無敵の人と、慟哭と、共感と理解と

 失うものが何も無ければ、人はその歪みにあてられてしまう。そうして無敵の人が完成する。人のコップの大きさはそれぞれで(決して心の広さではなく、個人差があるだけだ)、生まれた時からコップが満杯な者はいない。運が良ければ支えによって歪みを回避することができるだろう。しかし、アーサーには運が無かった、いや悪運だけは最高だった。他人から見れば喜劇程度の評価しかない全ての支えは、彼にとってこの世界の全てだった。そこの理解もまた恐らく、観客一人ひとりによって異なるだろう。歪みを正しく理解しながら、もしくは歪みと遠い世界の住人であれば、すぐに気付くはずだ。「この世界はもっと広くて、物事には多面性があり、客観的に自分を観ることが寛容である」ことを。
 しかし彼は、そして彼を取り巻く社会は、冒頭から追い込まれていた。社会保障は打ち切られ、自身の障害は中々理解されない。人はあまりに辛い状況であれば涙を流すものだ。しかし、アーサーは涙を流しただろうか。流さない。メイクの涙しか流さない。道化(クラウン)で悲哀を担当するピエロであれば当然だ。涙は仮面の役目、つまりピアゾクラウンであり、その下の彼は一度だって泣かなかった。大庭葉蔵も幼少期は自身を道化として生きた。社会に永遠の命を持って顕現している「歪み」による、やり場のないストレスから身を守るために。アーサーがコメディアンになりたい一方、道化の職業に就いていたのも必然的な運命を感じざるを得ない。

 共感するか否かを、作品の良し悪しと直結する鑑賞手法が蔓延って久しい。この共感とは、作品のテーマにではなく、主人公の心理状況に対してだ。だから、このジョーカーという作品に対する評価をしにくくてモヤモヤしている層がいるのは「そりゃそうだろうな」となる。なぜなら、彼に共感をするということはつまり、我々が「意図的に観なかった」社会の歪みを支持することに繋がるからだ……と彼らは思っているからだ。そうして恐れるのだ、「お前だって今まで、附属池田小、やまゆり園、秋葉原や京アニの事件の犯人を心理的にプロファイリングしなかったくせに、フィクションの男には感化されるのかよ」と反駁されることを。
 私が言いたいのは、作品というものは血肉の通った実在する人間が創り出したものだから、その実在する人間が意図したいメッセージの方を、理解しようとすることが観賞のあるべき姿勢なのでは? ということだ。だから、この作品を観て何かを感じたのであれば、その何かを曖昧模糊な単語に沈下させず、しっかり芯を捉えようと動くことが大事なのだ。それを非難される謂れは無いし、そうすることで、この人間社会に息づく歪みを、作品というフィルタを通して観察できるはずだ。

 共感ではなく、理解。悲劇(トラジェディ)と喜劇(コメディ)。主観と客観。その多面的な見方は、主演のホアキン氏の生涯にも当てなれなければならない。ヒース・レジャー氏はその半生を苦悩と後悔と、しかしそれでも自らがスクリーンに映るのであればという真摯さを持ってジョーカー(歪み)に挑み、ある意味で勝利したと思っている。ホアキン・フェニックス氏もまた自身を用いたドッキリ騒動の頃から周囲からの顰蹙を買いつつ、自身の兄や家族との関係性もありつつ、その全てが彼の在り方であった。ホアキン氏の熱演を見れば、彼が疑いようもなくヒース氏と同様(そしてまた別の視点から)真摯にジョーカーという存在と向き合い、また新たな最高のヴィラン像を構築するに至ったのだろう。そしてその手腕はトッド・フィリップス監督の解釈によって、市井から生まれ落ちた悪という「本来秘密であるからこそ人を掻き立てる悪役」の掟を破って尚、十二分に評価できるストーリーを描いたのだ。

3.地下鉄と愛着障害と、それでも信ずるべきもの

 地下鉄のシーンは不甲斐なくも、はっとさせられた。1980年代NY的な給電不足の演出は、無論彼の精神の彼岸と此岸を意味している。傾くべきでない歪みと、つい先程まで子どもたちを(仕事の一環としてだが)笑わせていた日常を、明暗によって見事に描ききっている。そんな彼に容赦なく忍び寄る、何処にでもありふれている(それはゴッサムであり、今の米国であり、日本であり、香港である)純粋で他愛ない悪意。人が堕ちるのはいつだって些細な一幕で、しかしその撃鉄は容赦なく弾丸を叩く。繰り返すが、そこまで彼は何処にでもいる一人の人間だった。むしろ彼はやはり、人間性を持っている方の人間である。その証拠に、そんな葛藤は人間性を持っていなければ起きないからだ。小人症の彼を逃がす一面などがそうだ。最早後戻りはできない状況になって尚、アーサーは彼を無傷で逃した。それはアーサーが虐げられる者の痛みを知っているからだ。だから彼らの職場でセンスの無い障害者いじりがあったときも、アーサーだけは「病気の」笑い声で空気を読むに留まっていた。

 愛着障害は意外と知られていないもので、しかしこの作品を語る上ではトゥレット症候群のような笑いグセ(彼の場合は恐らく虐待時の頭部損傷による後天的なもの)や、民主主義の墓場である取り返しのつかない貧富格差以上に欠かせない話題ではないか、と感じた。それは幼少期、保護者から十分な愛情を受けなかった者が陥りやすいとされるもので、言いようのない空虚感やコミュニケーションの齟齬など(個人差はあるが)様々な課題を人生に残す。アーサーは愛着に難を抱えていたことが発覚する。彼の三大支柱である家族の部位はこの場面で崩壊することになるのだが、他の二つの心の支えと比較して、私は最重要の支柱であったのではと考える。夢は見直すことができる。いい女とアレコレする妄想などほとんどの男が経験している。しかし家族は、家族だけは替えがきかない。
 最後の「ジョークを思いついた」が、本作が最後に残した観客への希望(であり、絶望)であったとしても。母がトーマス・ウェインとのあれこれを語ったことが全て母側の妄想であって、それを彼が暴いたことが真実だとしたら、もはや彼を支えるものは世界に無い、と主観によって規定しても全くおかしくない。生まれ落ちた命が社会に承認されるイニシエーションが成されなければ、心の深奥で社会から認められない、存在しないという思いに至るのは当然のことだ。アーサーは歪みと出会い、直視し、彼なりの葛藤の果てに、自身が概念としての悪となることを選んだ。マレーの今際の言葉は、ミクロで見れば正論であることは疑いようがない。それは誰もが理解している。しかしそれでも尚、アーサーという主観を持った観客は、それを素直に支持できるだろうか。いや違う。できたとしても、それはこの美しくも醜い現実で起きた非道の事件の数々をワイドショーのコメディとしてしか観ていない「善良な一般市民」に突き刺さる諸刃の剣でしかない。

 本作のアーサーとブルースの年齢差を考えるに、どう考えても本作のジョーカーはその他数多のバットマン作品との整合性は無い。だが本作でジョーカーは間違いなく産まれ落ちた。ではジョーカーとは何なのか。私は、本作のジョーカーは概念としてのジョーカーではないかと考えている。ジョーカーという概念があのゴッサムに(つまりはこの社会に)産まれ、それを見た人々(つまりは我々観客)に提示される。我々はアレコレ喧々諤々しながら論じるが、その全ては結局ジョークレベルの戯言にすぎない。彼のフォロワーはいるかもしれないが、それは本記事も含め一面を見ているに過ぎない。しかし、数多のフォロワーの中で、彼の真理を理解してしまったものがいたらどうだろう。それが知的で狡猾な、しかしジョーカーという歪みの体現者を真に理解したものがいたとすれば、ジョーカーはミームとして伝染し、新たな(そして真の)ジョーカーを生み出しはしないか。その彼こそが、ジャック・ニコルソンであり、ヒース・レジャーだとしたら?本作のアーサーは、概念としての、ミームとしてのジョーカーとして存在し、やがて受け継ぎし者がブルースと戦う者として、バットマンの正義を破壊することになるとすれば、本作の意図する所はまた次元が異なることになる。

4.どんなときも笑顔でいる呪い。その名はJOKER

 社会派と言われる作品はあまり好きではない(が、コメディとして観るのは嫌いではない)自分でも、それがJOKERという作品にたっぷり濃縮された美術、背景、プロップ、劇伴によって、ここまで昇華されていては耐えられない。決して表面だけを舐めるようにして観てはいけないが、同時にコメディとして観ることも必要だ。映画が包含するイメージそのものは決してJOKEなどではなく、この時代に生きる人が必然的に笑顔の下に隠している(か、そもそも仮面が本当の顔面になってしまっている人もいるだろう)、隠していたはずのものを浮き立たせてならない。貧富の格差や障害者への福祉など論点は色々尽きないだろうが、決して一つの視点だけで観てはいけない作品であることは疑いの余地はない。
 どんなときも笑顔で人を幸せにすることなどできない。我々はそれを嫌というほど知っている。その仮面の下を晒して尚、劇伴の『smile』を流しながら現代文明(モダン・タイムス)の歪みと戦えるほど、我々は強くもない。それでもせめて、いつかその全てをジョークとして笑い飛ばせる日が来るために必要な一作である。

 お終いに、本作はDCコミックスに親しみのない人でも十分楽しめるが、復習を大事にしている人はクリストファー・ノーラン版バットマン『ダークナイト』、マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』、また余裕があれば同監督の『キングオブコメディ』も是非御覧ください。

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