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【天気の子 weathering with you 感想】愛にできることとは

オススメ度 ★★★★☆

1.その罪と罰は釣り合う?

 罪は罰と共にある。帆高の罪は青春ゆえの擬似的な万能感と、それが招いた一連のストーリーである。その罰は後悔と共に雨に飲まれ、昔からある場所へと回帰した。公開当初、本作が「議論を呼ぶ」と言われ、また(『君の名は』からの新海誠フォロワーからは特に)エンディングについての疑問や不満が噴出したという話を受けていたので、私は多少なりとも身構えて本作の視聴に臨んだ。しかし結果として、本作においてこのエンディング以外のルートが見つからないのだ。

 日本語は難しい。天気という言葉は天候を意味することもあれば、同時に晴天を意味することもある。明日天気になれ、という文言を一度は聞いたことがあるだろう。本作の題名である『天気の子』で表現されている「天気」と、イメージボードからすれば確かに晴天を意味していると捉えるのは当然である。またストーリー的にも陽菜の持つ力が「100%の晴れ女」であることからも言及できる。しかし同時にサブタイトルはweathering with youである。天気とは、晴天も雨天も全てを包含した言葉であることに留意した上で作品を俯瞰する必要があるだろう。

 2000年代前半(2008年まで?)のエロゲーや、全年齢対象のノベルゲーム感に近いものを味わったという感想がバズっていた。鑑賞後にその表現が中々興味深いものだと感じた。

 セカイ系は平成に取り残された亡霊か、という議論も面白いだろうが、本作の感想からはややズレるし得意では無いので本筋に戻る。

 ストーリーの穴は確かにあちこちに存在する。お前はそこまで線路上を走ったのかスプリンターか!とか、終盤の話の流れが都合良すぎないか?とか色々あるが、恐らくこの辺りの疑問点は用意されたものだろう。なぜなら、こうした疑問点を用意することで、本作で避けては通れないある数点も同列に属せるからだ。木を隠すなら森の中である。

 まず、帆高の行動による罰が本人に対してでなく陽菜に向かうことである。思春期特有の疑似万能感によって(それは須田さんの所で養われた部分もあるだろう)晴れ女業をけしかけ、その代償は陽菜に向かい人柱となる。しかし留意すべき部分は、晴れ女としての人柱は帆高がいようがいまいが必然であった点だ。雨が降り続ける気象と人柱については、取材先の住職が説法していたように「そういうもの」である以外議論の余地はない。占い師の野沢雅子だって同様だ。であれば、帆高の罪は晴れ女業をけしかけたことでなく、発砲と家出の件に収束する。罰はエンディングの東京そのものだ。彼は自身の疑似万能感によって陽菜を救うという罪を犯し、その罰としてエンディングの東京となったのであれば、合点はいくだろう。

2.チートを拳銃に込めて

 例えば本作が前述のように原作がゲームであったとしよう。では原作のゲームに拳銃は存在しただろうか。選択を迫られる場面まで楽曲を用いてショートカットしダイジェスト化するのは正に劇場版と捉えられる。原作ゲームでは3ルート程度を消化した後に現れるTRUE ENDを、その他のルートに触りながら駆け抜けるという作品に仕上げるのが妥当だ。しかし足りない。一発でTRUE ENDに引っ張り上げる為には、本来ゲームで後半にならないと登場しない梶氏や平泉成さんを最序盤にフックさせる必要がある。後半の都合の良い協力シーンに至るまでには、ただ行方不明届だけでは弱い。だから恐らく、拳銃は劇場版のみに与えられたチートアイテムだった可能性がある。これを置かなければならなかった理由は何なのか。

 セカイ系が平成に彷徨える亡霊とされたのは、それが阪神淡路大震災(及びオウム真理教)辺りに衆目に触れ、東日本大震災で幕を引いた存在だとする説もある。最後の帆高の選択に疑問を呈する着眼点は本来正しいものであり、彼らの選択により何人が死んだのかは不明であるが、要するに「二人とセカイを天秤に掛ける」ことがセカイ系の重要なキーである。だから疑問を持つ人の想定する最後では、陽菜ともう一度会うまでは共通ルートとして、その後にそれでも晴れを求める大多数のために陽菜が人柱として消え、あわよくばエンディングで消えたはずの陽菜のような存在を見つけて、的なものかもしれない。当然、そんなことにはならない。セカイ系で重要なのは二択が完全に分離されていることで、もし人柱ルートを選択したのなら帆高は島へと戻り、後輩と結婚して一生を終える必要がある。だから人々が望むような、大衆も二人もハッピーエンドになることは無い。

3.晴れ女業を社会システムの対立項にできない理由

 答えは明確で、この作品が表現したいメッセージが「強固な社会システムの中に生きる若者たちへの応援」の側面があるからである。帆高の選択に陽菜が一つ一つ甘いのは当然で、また先輩がいつの間にか協力的であることも当然である。社会システムは然るべき通りに回っても、その例外に置かれた存在同士が繋がらなければ意味が無いからだ(恐らく原作ゲームではそれぞれに理論のあるひと悶着はあっただろう)。また原作ゲームでは、晴れ女業が社会に露呈した後のイザコザで警察が動くことになるのだが(なるのだが?)劇場版である本作ではあくまで帆高の銃器発砲と行方捜索で警察が動くことになっている。

 社会システムは当然強固であり、そこに生きる個々人がその役割を十二分に果たして成立する。そこに置かれない者にフォーカスが当たり辛いのは現実的によくある問題で、むしろ昨今は増加している傾向にある。思春期はそのシステムへの一種のアレルギー反応であり、選び選ばれた脱げられぬ鎧を俯瞰するまでの抗体造りである。それらを救うはずの社会システムが果たして100%稼働しているかと言えば、それは嘘になる。彼岸で眠る陽菜を救う帆高の行動と、その選択に対し異を唱えられるのは、100%社会システムが正常に機能した社会にいる存在だけである、という理屈も考えられる。(但し劇中で正常に機能していないだろうという一面がなかったことが悔やまれる)

 個人的な見解を述べれば、二人VSセカイの構図で前者を取ったのに東京が壊滅して無い時点で「なんてやさしいデウス・エクス・マキナなんだ」と思った。雨が数年降って元来海だった土地が浸水しただけで済んでいる?ノアの方舟くらい降ってもお釣り来るのでは? と。だがこれはセカイ系の概念を核に据えた物語ではない。無いから、別に二人の選択の代償に他人が死ぬこともない。これはあくまで「強固な社会システムの中に生きる若者たちへの応援」であって、もし東京が壊滅したのなら応援ではなくなってしまう。社会システムもボーイ・ミーツ・ガールも100%のものでないからこそ、多少の混乱にも柔軟に対応できるし、それが不完全であっても「青いなぁ」という良さが生まれるのである。

4.本作の価値

 愛にできることは、善悪や論理を超越する程度である。その愛が純粋であればこそ、その程度は増す。天気は我々の生活に直結するからこそ、鑑賞の後に生まれる感慨を呼び起こしやすい。晴れが良いという固定観念の揺さぶりもある。ストーリーに穴が多いのは、登場人物が不完全である証とも言えるが、そこが許せない人は観るべきではない。この上映時間でこの内容なら、十分釣り合うだろう。嫌いな人はとことん嫌うだろうし、『君の名は』以前の新海フォロワーであれば評価が分かれると思う。大事なことは、フィルモグラフィーや「こうあるべき論」を持ち出すことは劇中の社会システムと同義であり、その視野の外にある者や、社会システムアレルギーを持つ者の行動倫理に対しできることは、愛という曖昧な概念を通して観るということなのだ。

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