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いじめについて(その1)

メディアの報じるいじめ問題

今回はいじめ問題について語ってみたいと思います。いじめは世間的に最も関心の高い教育問題かもしれません。メディアで教育が取り上げられるとき、必ずといってもいいほど現場を知らない評論家のような立場の方々がいじめについて熱く語ります。それを見るたびに悲しい気持ちになります。

残念なことに、その多くはまったくの見当違いだからです。学校現場から縁遠い皆さんをそこまで駆り立てているのは、メディアの作り出したいじめという幻想です。メディアの報じるいじめと、実際の教育問題としてのいじめは分けて考える必要があります。

メディアでは、いじめを苦にした自殺といったケースが仰々しく取り上げられます。それはいいのですが、それをいじめのステレオタイプと考えることがよくない。親を殺した子どものニュースが話題になったとして、「今の子どもは親を殺そうとしている子ばかりだ」なんて考える人は誰もいないのに、いじめではそれが起こっている。当たり前ですが、いじめの大半はそういうったケースではないです。

メディアが極端な例を取り上げることは耳目を集めるという目的からして妥当です。ですが、それをステレオタイプと捉えて感情的になっている中高年の姿は悲しいし、不快です。彼らは学校現場の方を見ている気になっているようですが、実際には明後日の方向をみている。「俺はいじめを絶対許さないぞ」という立場に立つことで、自分を勇敢だとか正義漢だとか思いこんで悦に入っているようにも映る。かっちょわるい。

私の目には、リングにさえ上がらないまま、場外乱闘を繰り広げて盛り上がっているにしか感じられません。

彼らの論調というか前提としているものは共通しています。「いじめというものはいじめた側が悪い」そして「学校はいじめ加害者に対して及び腰で、解決のために大鉈を振るうことなく、甘い措置を取るのがよくない」といったものです。いじめ厳罰化論とでもいいましょうか、そういう意見です。

一部は認めましょう。世間の方々が想像するいじめ=極端な例は、傷害等の犯罪で、本来は学校だけで解決できるはずのないものです。無理して学校が抱え込まず、警察に委ねるのが正しいのだという意見には同意します。ですから私も警察が主導権を握るべきだと思うのですが、これはこれで困ったことになっています。

私の経験上で語ります。傷害、恐喝、脅迫レベルのいじめは学校ではなく警察が主導すべき説。その難点は、警察が学校で起きたいじめを事件として取り扱うのをためらうということです。

詳しい事情はわかりませんが、私が実際に警察に相談をしてきた経験では、警察こそ学校で起きたいじめ問題に対して及び腰です。学校の教職員が相談にいっても本気で相手してくれません。被害者が保護者同伴で直接被害届を出すなどの形でなければまともな事件として扱わず、相談を受ける程度に留めたがるようです。(これはおそらく警察側が事件として認知するためのルール上の問題です。)

それはともかくとして、傷害事件などが発生しているなら、いじめという言葉も不要で、速やかに警察主導で解決すべきであるという考えは正しいです。ですが、そういったケースはさして多くありません。ほとんどのいじめはこれよりよほどスケールが小さく、であるからこそより厄介なものです。先の評論家の方々が、メディアのフィルターで噛み砕かれた「極端ないじめ」を参考にいじめ対策を論じている時点で、的を外すのは必然です。

そして、こういった事情により、「学校はもっと徹底的にいじめ撲滅のために加害者に厳しい指導をしろ」的ないじめ厳罰化論には、まったく同意できません。残念ながらこの立場は極めてナイーブで、学校現場で起きている問題をまったく理解していないことの証左といえます。彼らのいじめ認識がずれているということを示すには、次の事実を理解するだけで十分です。

被害者と被害者が語るいじめ問題

私がこれまで学校現場で経験したいじめ問題のほとんどは、少なくとも主張の上では「被害者と被害者のぶつかり合い」でした。いじめ発覚の経緯が実際の目撃ならばともかく、被害者本人やその保護者からの訴えであることが多く、事情聴取を行ったところいじめ加害者とされた側からは「私をいじめ加害者とするのは大きな勘違いで自分こそが被害者である」と主張をしてくるケースがほとんどでした。

教員は検察官でも裁判官でもありません。双方の主張が食い違う場合、何らかのファクトとエビデンスに基づいて判決を言い渡すといった形でのドライな解決は望めません。だから大変なんです。

現場は努力をしていないわけではなく、私の主観ですが相当な努力をしています。このような認識の食い違いが起こったら、一つのいじめ問題に対して、大量の周囲の生徒からの聞き取りや、防犯カメラ映像のチェックが行われています。それも調査シートのようなものを作り、ファイリングして、複数の教員で定期的にミーティングを開いて一歩ずつ慎重に調査を進めています。これには授業準備を超えるほどの人的リソースを注ぐ必要があります。そして注いだ結果、往々にして「何が事実だかよくわからない」という徒労感たっぷりの結論に至るのです。

必死に取り調べを続けた結果、残るのは、「私の子どもはいじめられています」と主張して、我が子の無念を晴らそうとする怒り狂った保護者ばかり。次第にその矛先はどちらが加害者でどちらが被害者かをはっきりさせない学校へと向かいます。そんな状況で夜遅くまで残って資料をつくったり、面談を行ったりしながら、激昂した保護者をなだめるのが現場の教員の仕事です。いじめ対応の内実はおおむねどの学校もそんなものです。

ちなみに、ありがちなオチを話します。こうした保護者同士の感情的なぶつかり合いに発展した「いじめ、あるいはいじめっぽい人間関係のこじれ」について、どのような決着がつくか。大事なのは時間の共有です。多くの回数、長い時間、顔を合わせて、話し合って、「他人が嫌がることするのはよくないよね」といった普遍的な倫理観を共有して、「今後はそういうことやめて仲良くしましょうね」といった話し合いに落ち着きます。大人が飲み会を開いてわだかまりを解いているのと似ています。これには時間がかかるため、仲介役の教員からすると大いに骨の折れる仕事です。

いじめ厳罰化論への反駁

ここで話を戻します。世間がいじめ問題についてとっているナイーブな態度をもう一度考えて、論理的に反駁してみましょう。

彼らの主張はこうです。「いじめという問題がある、それは集団で一人の生徒にからかったり暴力を振るったりするというもので、場合によっては自殺に追い込まれたりする。そうしたことは良くないので、してしまった集団は厳しく指導されるべきである。」これが第一。そして「その状況が改善されるために集団に対して学校への登校に制限を課すことは正しく、場合によっては退学等の処分をしてもよく、暴力等の事件性があるものなら警察に常に連絡すべきである。」これが第二。これらの主張は一見すると正しく聞こえます。実際、間違っているわけではありません。単に実態を正確に捉えていないだけです。

現場を知ればそんな単純なものではないことはわかるはずです。なぜなら、加害者側もまた「自分たちこそ被害者だ」と言っているケースがほとんどですから。第一にあげたようなケースがはっきりしないため、第二にあげたような立場をとることは容易ではありません。

こうして袋小路に陥った際、学校がとるケースがいじめ被害者側へのサポートやケアです。スクールカウンセラーのところに誘導することも多いですが、多くの被害者は行きたがりません。保護者は「うちの子どもは被害者なのであって病気なわけじゃないからそんなの必要ない」と言ってくることがほとんどです。

さらに強い対処として、緊急避難的にいじめられた生徒が安全に通えるように特別な措置を取ったりする、例えば別の場所で授業を受ける、いっそのこと別の学校に転学してしまうということも少なくありません。ところが、事情をよく知らない人がこの対処をきくと、「いじめ被害者が転校して加害者が転校しないのは不合理だ」といったようなことをいいます。これも的外れです。他に打つ手がなくなっているという、やむにやまれぬ事情からそうなっていることをわかっていないのです。

ついでにいえば、もっと面倒なケースもあって、自治体と連携して重大事態として取り扱うというものがあります。こうなると第三者委員会を立ち上げて、調査報告書をまとめて提出して、第三者委員会からの聞き取りを行ってという流れになるのですが、こうなるとほとんど係争案件と変わりません。しかも要領が悪く、何年かにまたがってやり取りを続けることになります。加害者も被害者も学校も、すべて疲弊します。結果、学校や自治体側からすると「隠蔽しなかった」というお墨付きが得られるだけで、問題そのものは解決しません。誰一人得をしません。

いずれにしても、現状、この国のいじめ問題はそのほとんどが解決できません。それは学校現場の努力不足ではなく、構造上の問題です。もしあなたがそう思わないのだとすれば、ありていにいって勉強不足ではないでしょうか。

人間はトラブルを生み、合理的に動く

人間は合理的な生き物です。何かトラブルがあると、自分の身を守るために得な立場を選びます。いじめ問題の場合、「被害者の立場」が最も有利な立場なので、その立場を選び取ろうと必死に戦います。そういう判断をした人間に対して、倫理的な説教をかますことにどれだけの意味があると思いますか。

人間が成長するためには、自分の非を認めて、悔い改めるのが正解ですが、小学生くらいならともかく、中高生以降にとっていじめは重苦しすぎるのか、そういうスタンスに立てる生徒は稀です。そう差し向ける保護者も稀です。したがって、一般に「自分はいじめてはいない、いじめられたのだ」と訴えることは合理的です。ですが、その光景を見るたびに、何ともやりきれない気持ちになります。教育的ではない。誰も成長するイメージが湧かない。何のために私は苦労しているんだろうという虚無感だけが強く残る。

これがいじめ問題に対して私が語りたかったことです。

依然としていじめは大きな問題である

しかし、忘れてはいけません。いじめ問題の対応が難しいからといって、いじめという問題そのものをうやむやにしたいわけではありません。世間の多くがイメージするいじめは、確かに存在します。存在はするのです。いじめ問題を調査した際は別の問題に形を変えてしまうだけで、集団で誰か一人に嫌がらせをするとか傷つけるといった行為が行われているのも確かな事実なのです。そしてそれは撲滅されるべきです。

ですから教師は、いじめに真正面から取り組もうと思えば思うほど、精神的に病んでいきます。まじめ過ぎる人はいじめ対応には向かないのかもしれません。いじめ問題は現実に存在しますが、その問題に対処しようとした瞬間、弱者同士が互いに相手がいじめてきたと訴え合う水掛け論に様変わりしてしまいます。そして、学校の立場といえば、感情的になった双方をなだめつつ時間をかけて仲裁するといった非常に難しいものです。

最後に少しだけ労務上の問題にも触れます。

いじめ問題を扱う際、多くの面談は夕方以降に行われます。いじめの訴えが保護者からあった際、時間外労働したくないから営業時間内に来いとはいえません。都合はすべて相手側に会わせます。そのため学校教員は、日中は調査や会議をし、夜は感情の高ぶった保護者を落ち着かせ、なけなしのカウンセリングマインドで寄り添って、粘り強くなだめていく。そのようにやり過ごしているのが現状です。

犠牲になるのは睡眠時間です。ここまで書いてもなお、いじめ問題は学校のぬるい対応に問題があるとお考えでしょうか。

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