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学校は保育施設である

今回は学校の役割は何かというテーマで語ってみたいと思います。極めて根本的な問いですね。

学校の役割は子どもを成長させることと考える人が多いでしょうが、それは物事の反面しか見ていません。現代社会において、学校は子どもを預かるというもう1つの大切な役割があります。そのことをクリアに説明するため、教育と保育という2つの言葉で切り分けてみましょう。

学校の保育的側面

雑学からスタートしますが、幼稚園と保育園は何が違うのかという話を聞いたことがあるかとおもいます。幼稚園は文部科学省の管轄ですが、保育園はかつて厚生労働省、そして2023年の途中からでしょうか、その時期からこども家庭庁というところの管轄になりました。

つまり幼稚園は子どもを育てる目的、保育園は子どもを預かる目的の施設です。とはいえ両者は明確にスパッと分けられるものではなく、どちらの施設にもどちらの側面もあります。

行政上の区分はともかくとして、学校の持つ「子どもを預かる」という役割は社会的に極めて重要です。

もし子どもを預かる施設がなければ、共働きの子育て世帯などまったくやっていけなくなります。幼児期に限った話ではなく、小学校中学校高校年代の子育て世帯についても同様です。学校という子どもを預かる施設があるおかげで、現代社会は人口比で多くの労働力を確保できています

これは先日まで続けていた部活動の役割を考える上でも重要なポイントになります。

「中学校に上がって部活に入ったおかげで、夕方まで子どもが帰って来なくてありがたい」という保護者は少なくないでしょう。部活動の役割の1つは学童保育です。残念なことに教員の残業(定額働かせ報道)とトレードオフの関係にありますが。

保育的側面をあなどるなかれ、エッセンシャルかも

2020年2月末のことですが、当時の安倍首相がメディアに対して唐突に「学校を臨時休校にします」という一声を発したことで学校現場が大混乱に陥ったことがありました。これは新型コロナウイルスの拡大を食い止めるために、初期対応として人の動きを制限する意図で学校を休校にしたわけです。

ところが私はこれに憤慨しました。

それは子どもに勉強を教えることは他の仕事より優先されるべきだという教育的な反発ではありません。(それもなくはないんですが。)学校の持つ保育の役割が軽視されていると考えたがゆえの反発です。

子どもが学校に行かなくなると家で一人きりにさせるわけにはいかないので、保護者が家に留まって面倒を見る必要が出てきます。そうすると、その保護者は仕事を休まなければなりません。この動きが広がれば、この社会を成り立たせている根本ともいえる労働力が不足し、結果的には社会全体が機能不全に陥ると考えたのです。

これが社会全体に休んでねというメッセージならわかります。後に発せられた「エッセンシャルワーカーじゃない、不要不急じゃない仕事なら原則休んでね」というメッセージならわかるんですが、あのときは学校が優先的に休校になりましたから。なんで優先させるのって腹立ちました。

きっと学校が労働市場の中で孤立しているイメージがあったからでしょうが、実際はそんなことないです。連鎖的に他の仕事も止まってしまうという意味で、むしろエッセンシャルな方だと思います。

ちょっと話がそれますが、あのときは突発的に決めたとしか思えない情報の下ろし方も含めて憤怒しました。

コロナはあの数日で急激に広まったのではなく、2か月近く世間の話題の中心にありました。検討期間は十分あったわけです。もし学校の休校を検討しているなら、「今後の感染拡大の状況によっては学校を休校にするかもしれないんで宿題配る準備とかしておいてね」と文科省を通じて事前通告できたはずです。それすらしなかったってことは場当たり的な対応でしょう。でもって結局、メディア相手にいきなり「学校休みにします」宣言ですから。世間ウケ狙ったパフォーマンスと疑われてもしかたないですよね。

あーあのときの怒りがふつふつと。話戻します。

ともかく、学校の役割全体を考えた場合、保育的側面っていうのはそれくらい大きなウエイトを占めていると考えています。

子どもを大人にさせることは安全じゃない

さて、学校で受けられるサービスを考えた際に、教育と保育の違いはどのように説明されるでしょうか。

シンプルです。教育は子どもを成長させる行為、保育は子どもを見守る行為と説明できます。もっと平易にいうと、教育は子どもが大人になるように促し、保育は子どもが子どものままであることを肯定する。そのような立場の違いがあります。

ですから学校教員というのは必ずしも子ども好きである必要はないと思います。むしろ逆かもしれません。子どもが幼稚な発言をした際に受け入れるのでなく、注意するタイプの方が教育的ですから。他方、保育の役割は子ども好きの人の方が向いているでしょう。子どもが子どもっぽいことをしていても見守っていればいいんですから。

よく「子どもを肯定しよう」みたいな教育観がまことしやかに語られます。ピグマリオン効果とか。自己肯定感、自己効力感とか。極論だなあと思います。実際はそんなに簡単じゃない。ある面では褒めてある面では注意する、その繰り返し以外に真に教育的な手法はないだろうと。

教育的側面に振り切るなら、子どもが停滞することを否定し、むりやりにでも発破をかけて成長させて、大人にいち早くしようと様々なアプローチをすることになります。学校行事などもそうした観点がありますね。高校生を海外に連れて行ってホームステイを経験させたりするのは危険が伴いますが、教育的には大きな価値があります

そうです。教育的側面からは必ずしも安全が正しいわけじゃないんですよ。多少危険でもやらせないとダメってこともある。でも最近の学校は安心安全を謳い、自らの保育的側面を強調することが増えましたね。そっちの方がウケがいいからでしょう。

私自身を振り返ってみると、完全に保育ではなく教育の側に振り切ったタイプの教員だと思います。子どもが幼稚なことをするのを嫌う傾向がある一方で、子どもが大人の真似をして生意気な発言をするのが好きだからです。プレゼンテーションしたり、プロジェクトマネジメントしたりする姿を見るのが好きだからです。

だから生徒会役員に立候補するような意欲的な生徒に関わる方が、ずっと机に突っ伏しているような無気力な生徒に関わるよりも得意な気がします。まったく子ども好きじゃない、教育側の教員。あくまで適性の話であって、教育も保育もどちらも学校の役割であり、ともに重視すべきものであるとは思うんですけど。

いかがでしょうか。教育と保育の切り分けにより、学校の持つ役割がクリアになったでしょうか。

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