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できない理由とできる方法(前編)

こんばんはどうもセイ吉です。
昨日noteの記事をリハビリがてら、そこまで気負わずに書きました。

今日は、昨日の記事で「次はすこしまとまったものを書く」と宣言したので、昨日より少しまとまったものを書いてみたいと思います。

内容はタイトルの通り、問題を解決するときなどによく言われていることです。
今回は、最近母親と話す中でこのことに関して自分なりに思ったことと、世間的に言われていることを混ぜながら書いてみたいと思います。

では、まず結論から。それは、

できる理由を考えないことは歩みを止めることである

このことについて、以下三つの観点で書いていきたいと思います。

1.自責と他責
2.成長と停滞
3.今を生きるか生きないか

1.自責と他責

まずこのテーマから。

人はどうして何かの失敗やうまくいかなかったことを、他人やもののせいにしてしまうのでしょう。

自分自身を守るための防衛機制でしょうか。はたまた失敗の原因を自分にあることを認めるのを恐れているからでしょうか。

これは非常に難しい問題だと言えます。何故なら昨日申し上げたように人は弱いからです。
弱いので、無意識的に自分が壊れるのを恐れる。

ミスの原因を自分自身に求めるということは、自分の欠点を見つける作業ともいえます。
誰だって自分の弱い部分を他人に知られたくありませんし、自分自身でも認めたくありません。

だから、他人のせいやもののせい、制度のせいなどたくさんの言い訳を作ってしまうのですね。
いわゆる他責です。

けれど、この考え方は非常に危険です。

何故なら原因を自分以外のところで探し、それらに責任を転嫁することは、自分自身が改善する余地を自ら放棄してしまうからです。

もし、自分が100%純白であったとしても、自分はもっとこうすればよかったんじゃないかと考えることは、自分の問題点を見つける機会になり、改善するべき部分が明確化されるので必要だと思います。

けれど他責で考えていたらいつまでも自分の問題点に気づきません。
学生ならばそれでいいですが、社会人は誰も自分のことなど気にかけて間違っていることを教えてくれません。

ただ、無視されるだけだと思います。そうなったとき、自分の人生にずっとその問題点が座り続け、人生の歩みを邪魔してくるでしょう。

僕はそうなってはいけないと思います。
それは社会的に生き残るためでもありますし、自分の人生をよりよく生きるためでもあります。

なので、物事は一度全て自責の観点で考えるようにしています。

そうすることで、自分が改善すべき点を明らかにできて、結果的にもっとより良い存在になれると思います。

そして、自責と他責で考えるとき重要なのは、「どうすればできたか」ということです。

あえて、この逆を言うと、どうやってもできないだと思います。

つまりできない理由を探すことです。これは他責に当たると僕は思います。
だって、「できない」ということは自分が考えることを放棄しているからだと思います。

できない理由を探すのは簡単です。ただその事象が起こった因果関係を述べるだけですから。

例えば、「自分は数学ができない」という人がいて、なぜできないのかということに対して、「勉強嫌いだから」、「先生が言ってることが意味不明だから」、「文字や記号を見ると眠たくなるから」ともう何でも出てきますね。

けれど、できるようになる理由を探すのは少し難しいです。それは考えないといけないからです。

いわば、「why」です。
事実を述べるのは簡単ですが、何故を考え、さらに具体的なアクションプランを出すことは一筋縄にはいきません。

かつ出したとしてもその方法があっているかわからないので、また手直しする必要があると思います。

でも、そこに本質があるのではないでしょうか。その過程が人を成長させ、自分自身を高めていける存在にさせる。
さらにそれが自責に考える、自分主体として何がよくなくて何ができるかを考えることにもなる。

そういう風に僕は思います。

■最初から長く書きすぎた…

分量配分を間違えてしまい、最初から長くなってしまいました。もう少し簡潔にまとめるべきですね。

けれど、この部分は今の僕の価値観の一つでもあり、あまり省略したくない気持ちもあるので、2部に分けて書いていきたいと思います。

ここまで読んでくださりありがとうございました。

それではまた、後編をお楽しみお待ちください。(笑)


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