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自然と自然

とことん人間の予想を裏切るのが
自然というものだ。
自然が人間の予想に合致しているとき、
人間は自然を愛でるが、
予想に反したとき、
自然に恐怖を抱く。
自然にとってはそれが自然なことなのに。
人間にとっては、
受け入れられる自然と
受け入れられない自然に別れてしまう。
        武田定光

自然と書いて
「しぜん」と読むようになった。
その時から
自然は確実に人間にとって別物になった。

人間も自然の一部でしかない。

かつては「じねん」と読んだ。

海とか山とか川とか太陽、雲、雨、大気
そんなものだけが自然ではない。
ありとあらゆる事象であり
ありとあらゆる事物を網羅するものが本来の自然。

わたしが生まれたのも
息をするのも
怒るのも
笑うのも
悩むのも
悲しむのも
人間が生み出したという文明も
核爆弾も
宇宙船も
ビッグバンも
ブラックホールも
一切合切が自然。

そこまで細かく分割しなくても
屁理屈をこねくりまわさなくても
かつては人間は自然の一部でしかないという意識が確実にあった。

対、自然となったのはいつの頃からだろう。

Natureという感覚が日本にきた頃からが一気に人間対自然という構図を作り出してきた気がする。
自然を人間は科学で解き明かそうとする。
何でも知りたがりやだから。

Natureという言葉に「自然」という文字を当てた。
それによって、日本人にとってもいよいよ自然は相対するものとなった。
自然から人間が抜け出した。

そう思いたい。
何でも自分で知って、分かって、できると思っているから。

釈迦の手のひらの上で格闘する孫悟空のようなものだ。
解き明かそうとする科学すらも自然。

さて、いままで「自然」という字を出してきたが
どれを「しぜん」と読んで、どれを「じねん」と読む。

読み方なんざ本当はどうでもいい。
でも感覚的に差別を着けるためにも「しぜん」と「じねん」に区別してみて。

「しぜん」というのは、今の我々がもつ「自然感」。
この中にも、「じねん」の名残はあるんだよなぁ。
「そういうことって自然じゃね」とか「なんかわかんないけど自然とやった」
そんな時に使うのは、もとの「じねん」の名残だろう。

「じねん」というとき
そこには一切の何者の思惑が働いていない
影響がない、なるようになり、ならんようにはならない、
そんな世界をいう。
「自」は「おのずから」ということであり
「おのずから」というのは、一切のはからいが働かないこと。
なにがどうしてどうなった、などという理由付けは無意味であり
なるようになった、ということ。
なるようになる流れの中になるようになった「わたし」もあるということ。
わたしたちの思慮分別や思惑や思想や願いなどが働かない世界。
解き明かしようのない時間も空間も超えた流れを自然(じねん)と読んでいた。

それをなんとかしたくて
神やヤマタノオロチや幽霊や妖怪やカッパを生み出してきた。
理由がほしいから。

いまいう自然(しぜん)に対してくらいはなんとしても対抗したい。
そんな思いからだろう。

でも、自然(じねん)には逆らうもクソもない。
なぜなら自然(じねん)は
わたしをわたしたらしめているすべてであり
わたしそのものだから。

量り知れない
わかりようもない
理由のつけようのない
不可思議の中にあるという意識を
昔の人々は
理屈ではなく
潜在的に持っていたのだと思う。

それの不可思議を「自然(じねん)」と付けたのだろう。

「自(おのず)から然(しから)しむ」

人間の知恵、人間の文化は
「自然(じねん)」から解き放たれたいという抗いなのだろう。

やっぱ、釈迦の手のひらの上で格闘する孫悟空だ。

でも、そうはいっても
この暑さ、異常気象、なんとかしたい。
なんとかせにゃならんと思うよね。

新型コロナ、なんとかせにゃなぁ〜。

なんとかできると思わにゃやっとられん😅

早く落ち着いて
旅に出て、自然(しぜん)と触れ合いたい!
っておもうよ。

北海道の広々とした景色

沖縄の美しい海

自然っていいよなぁ〜〜〜!

あぁ〜あ
日本語って難しい。

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