煩悩の根っこ。
「煩悩が全私(ぜんわたし)」であって、
「私の中の煩悩」ではなない。
武田定光
私が煩悩を起こしているのではないのです。
私が起こせるものであれば、起こしたり停止したりできるのです。
ところが、私の考えや感じ方すべてが煩悩ですから、煩悩と私はイコールなのです。
煩悩を排除することは、「全私」を否定することと同じなのです。
一切の壁がなく、仕切りはなく、皆同等、いや、壁も仕切りもないのだから同等も何もない、一如和合、みんないっしょってとこが悟りの世界。
私もなけれんば、あなたもない。
好きなあの人、嫌いなアイツ、そんなもんもない、わたしもあなたもないんだから。
美味しい不味いもない。
好みもなければ、好きな色・形・香りもない。
好き嫌いが一切ない。
比べることが、順位付けすることが一切ない。
つまんねぇだろ、そんな世界!
と、思えてしまうのが「煩悩」
比べてもの見ることを、聞くことを、感じることを一切なくせるか?
一切は無理だなぁ・・・
いやいや、一個でも、比較が、差別が、分別がるということは、全てに気づかないかもしれないがランク付けをしているよ。
服なんて、そこにあるもん適当に着ればいいんだ。
という人でも(これ自分なんだけど😅)、適当にの中に選びはかならずある。
食事するにしても、味噌汁から?ご飯から?おかずから?、って選びがある。
例えば腕が効かない時とか、食べさせてもらうときでも、素直に出されて口に運ばれたものを食べてても、「次はスープを・・・」と心中思ったっリ、「このタイミング、メシでなくて味噌汁だろ!」と心中毒づいたりしないかな?(これも自分の実体験😅)
選びはがあるということは、そこに必ずランク付け、分別がある。
選びなくして人間は前に一歩たりとも進めない。
人間であることは煩悩を生きることである。
だから、煩悩を消し去るというのは、本当に持続的にどこにいようが、それこそドラッグパーティーのど真ん中にいようが悟りの地から抜け出さないという仏陀以外は、都合のいいときだけ人間をやめた風を装い、事なかれ主義を装っているだけだ。
そんな薄っぺらな装いはすぐに剥がされて、リバウンドで煩悩まっしぐら、煩悩で身動きできなくなる。
こんなおぞましいことを考えないと、わたしはすぐにいい人に成りたがる。
いい人じゃないくせして、いい人になろうとすれば、煩悩で肥満すんぞ!
煩悩肥満は可愛くねぇぞ!
と、自らを叱咤するくらいしかできない。
社会的にいいことやろうが、他者から褒められたことをしようが、それもまた煩悩のなせる技である。
う〜〜〜ん。。。
どっちにしろ、なんにしろ、どこにしろ、煩悩なんかい。
だったら、比べて、選んで、分別して、なるべくいい思いをしたいわな。
どうせなら、気持ちよく過ごしていたい、気分良く。
だし、やっぱ、よく思われたい、よく見られたい、褒められたい、そっち系のわたしとしては、投げやりに生きるのは心地よくないのでやめておいたほうがいいようだ。
上下関係大っきらい、人の顔色伺いたくない、忖度なんてくそくらえ、ってとこもあるので、どうもこの辺の兼ね合いが難しいきがする。
ま、こんな風に、自分でなんとかできると思っている勘違いこそが煩悩の根っこなんだな。
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