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人間嫌い感が上昇中の自省だな😅

他者と一切の関わりの無い
独立した形の私はなく、
時々に他者との関わりで
千変万化している
定形のないわたしが、
わたしにとっての「自己」でした。
        祖父江文宏

いま私たちの暮らす社会、
時代においては、
平和で便利できれいで、
豊かで賢こくあることが正しいとされている。
平和を希求し、
戦争をなくそうと武器を手にし、
日々高性能な武装兵器の開発が進む。

便利さというものを追求するとき私たちは、
そこにある弊害というものを忘れ去る。

きれいさを追求するとき私たちは、
表面の装飾に苦心惨憺し、
覆われた中身が腐っていくことに気が付かない。

賢さを追求するとき、
私たちは愚者である自分を許せなくなり、
愚者であることを認められず息苦しく生きる。

豊かさを追求するとき、
私たちは歯止めの利かない欲望に溺れ、
もがき苦しむ。

便利でないもの、
きれいでないこと、
賢くない人、
豊かでない生活は悪であり、
許せない。

それが悪いことだというのではない。
そのお陰で今の私たちの豊かな、
そしてきれいな生活がある。

ただ、何かにまい進するときに、
私たちは一方向しか向いていないという事実がある。
それならば、時々立ち止まり、
しっかりと自分たちの立ち位置を時々見直すことが大事である。

私たちはあまりにその作業をおろそかにして来てしまったのではないだろうか。
発展、豊かさ、便利さ、きれいさという幸福追求に目がくらみ、
実際のところ、全然豊かでも幸せでもない社会ができつつあることから目を逸らし続けてきたのではないだろうか。

そりゃ、わたし自身も、
できることならお金はあったほうがいい。

でも、お金があるから幸せ、と感じたことはさほどない。
もっと欲しいと思うだけだ。
案外、その金銭の額の大小ではなく、
「やばい」と思った時にこそ、
お金に感謝できる。

ある冬の日、
用事で少し遠くまででかけた、車で。
いつものようにコインパーキングに車を停めて、
小一時間で用事を済ませてコインパーキングに戻ってきて、
小銭が全くないことに気づく。

いつも財布に数枚の千円札を入れているのだが、
その日に限って五千円札が一枚。
千円札は使えるが、五千円札、一万円札も
カードも使えないタイプの精算機だった。
駐車料金200円が払えない。

周りにはコンビニもない。
五千円札を崩せる場所もない。
日曜のため、唯一ある銀行も閉っている。
今から用事を済ませたところに戻り、
「スミマセン。200円、いや、この間にも100円上がってしまうかもしれないので300円貸してください。」とお願いしに行く・・・
その勇気がない。
やばい。駐車場から出られない。

冬場なのに汗を掻き掻き、車の中をあさる。
整理整頓ができない自分で助かった。
なんかの折りにこぼれ落ちた小銭が椅子の下から500円ほど出てきた。
その時は本当にお金に感謝した。
手元にある五千円札よりも
車内にこぼれ落ちていた小銭に。

ものがあれば幸せという感覚は、
ただひたすら欲望を募らせるだけで、
欲望に終点はなく、
今持っている欲望が満たされたとしても、
必ず次に新たな欲望が待っている。
そして苦しむ。

ではどうすればいいのか。
いま、ここを満足し、感謝し、喜び、幸せに思う。
理念、理屈では生きていけない、腹は膨れない。
言うは易しだ。
でき無いからこそ、欲に走るしか手がないんだ。
たださ、
そういう考え方をする
「練習」くらいはできるのではないだろうか。

暑い日にへとへとになって帰宅したら
冷えたビールを出してくれた。
サイコー!

悲しいとき、辛いとき、悔しいとき、
何も言わずにそばにいてくれた。
後付けだけど、感謝。

腹立たしいことを言われたけれど、
その言葉で気づけた。
できない自分と
それでもいいと言ってくれる人がいること。

どんな些細なことでも、大ごとでも、
なんでもいいので、ラッキー、とか、
サイコーとか、嬉しいとか、
言葉に表せないけど温かみを感じたとか、
そんなときに、
「あぁ、これが豊かさということなんだな」
と噛み締める「練習」をしていくことが大事だと思う。
普段、社会でいうところの豊かさ、
便利さというものの矛盾に気付いていくこと、
それが大事なのだと。

自分一人ではできない。

だれかと触れ合って
だれかに見られて
だれかに聞かれて
だれかを見て
だれかの声を聞いて
気付かされていく。

見知らぬ街に越した時
そこに先に住んでいた方が
「おはよう。いってらっしゃい」
と笑顔で声をかけてくれた。

引っ越しや
仕事とで疲れていたが
元気が出た。

自分もそう在りたいと思えた。

その街の
自宅の一区画だけではあるが
笑顔で挨拶ができる時間ができた。

これにしたって
受け止めてくれる人が
だれもいなければできない。

勇気を出して
「おはようございます」
と声を掛けた時
先の方とは別の人が
「こしてきたの?」
と笑顔で受け止めてくれた。

そこの家の子どもが
「おはよう」
と声を掛けてくれたり
「あのね、〜〜なんだ」
と唐突に話しかけてもくれるようにもなった。

たまにだけれど
そんなふれあいが眩しく感じることがある。

人間も捨てたもんじゃねぇな。

基本、人間嫌いだからよけいなのかな😅

人は自己を映す鏡だし
それだけではなく
自己を照らしてくれる光でもある。

光が当てられると
影に気づくこともできる。

影に気づく時
自己を見詰めているわたしが必ずそこにいる。

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