明けないよ、このままじゃ、この夜。
一体全体、私たちの感覚はどうなっているのでしょうか。
感覚を研ぎ澄ませるどころか、むしろ感覚を麻痺させる消費社会とマスメディアの洪水の中で、感覚を封印し「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿主義に溺れているのではないでしょうか。
尾畑文正
明けない夜はない
やまない雨はない
と、いう。
たしかにそのとおりではある。
でもね、
自らが雨にずぶ濡れになっているということに気づかなければ、雨はやまないよ。
自らが夜の真っ只中、暗闇のただ中にあることに気づかなければ、夜はあけない。
そして、それでも、ある時、自分が暗闇から抜け出せない、雨がやまずにずぶ濡れて呆然としているとき、無情にも思えるように周りでは雨がやみ、独り取り残されたような気分で夜明けを俯瞰する。
でも、わたしはずぶ濡れのまま夜のただ中にいる。
そんなのはよろしくないんだよ、絶対。
だからこそ、見たくなくても見る、聞きたくなくても聞く、声を上げる時には上げる。
無感動では朝も朝として受け入れられない。
雨上がりのきらめく星も眩しい太陽も見えない。
落ちろと言うんじゃないんだ。
いま、ここにもしも苛立ちが、息苦しさがあるとしたのなら、それは感覚がある証拠だ。
それをないことにするのは愚策でしかない。
社会は、決して、お上が作るものでも、神が作るものでも、仏が作るものでもない。
人の社会は人同士で迷惑掛け合いながら、迷惑しながら作り出すものだ。
その社会で暗さや明るさを感じ、自分の世界が夜明けを向かえた時に夜になる世界もあるということを想像し、感得しながら生き合うのが人間だ。
いま、日本だけではなく、世界中が「明けない夜」のただ中にあると思う。
待っていても夜明けは来ない。
夜であることを認めて、初めて夜明けは来る。
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