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都合の良し悪しという幻想

都合の悪いことが取り除かれて
救われるんじゃないのです。
都合が悪いことがあってもかまわない。
都合のよしあしを超える。
そこが私の生きる現場だった
       一楽 真

仕事が一段落して
コーヒーを買いに地元の商店街へ出たら
なんだかんだと変化があった。

別に大きな変化ではない。

いろいろな店が
今日からなんとかフェアとか
新メニューとか。

あぁ〜8月なんだなぁ。

だからどうだというわけでもない。
ふつうに一日が過ぎて
ふつうに一時間が過ぎて
8月だからなにかが急激に変わるわけでもなければ
自分がいきなり年を取るわけでもなく
頭が良くなるわけでもない。

変化は常にあるといえばあるのだろう
気づかず見えない変化は。

でもその見えない変化には
実は一番根本的な大事
わからない、みえない刹那の変化には
気づかないし
それにはあまり感心がもてない。
感心をもてるのは
目に見える変化だけだ。

時間という感覚は
人間が勝手に作り出したものだ。
それがあるから
年齢とか
学年とか
西暦とか和暦とか
陰暦とか陽暦とか
歴史とか
なんやかやがある。
これがなくなると
正直
なにもないのだろう。
だから
時間というものは人間にとっては
無視できないものである。
である以上は
「元旦だからって、8月になったからって、あたり前に一日が過ぎただけじゃん!」
そんな事を言うのは
センスのない屁理屈でしかない。
素直に
気づきのチャンス
立ち止まって見るチャンス
そういうふうに受け止めるようにしている
最近は。

「最近は」ということは
ついちょっと前までは
「センスのない屁理屈」系だった。

気づきのチャンスだと
時間を受け止めるように努めると
なにかとどうでもいいことにも
気が、目がいくようになる。
「あれ?屁理屈ヤローやっていたせいで
 けっこう見落としがあったのかも?」
ということくらいはなんとなく感じている。

見落とす生き方は
都合の悪いことを見ないようにするのにはいいかもしれない。

色々と気づきのきっかけを求める生き方は
見落とすものが減る一方
都合の悪いものも見えるようになる。

どちらがいいかだろうな。

なんの気づきもなく
感動もなく
社会から与えられたものだけで生きる。
与えられても
感謝も感動もない。
あたり前だともらって生きるよりかは
自分は
都合の悪いものを与えられてムカついたり
都合のいいものを貰って喜んだりして
「なんだよ結局はテメェの都合でしかないんじゃね?」
と悩まされる
そんな生活のほうが性に合っている。

「都合が悪いものがあってもかまわない」
なんてウソでも言えない。
「都合の悪いものは消えてもらいたい」
と正直思う。
でも
都合の悪いものが全てなくなったとしても
都合のいいものの中から新たに都合の悪いものを探し出す。
で、また都合の悪いものをなくそうとする。
また新たな都合の悪いものを作り出す。

結局はそんな繰り返しだろう。

そんな生活が
なんか面白いな
そんなふうに思えるように成りたいんだな。

8月1日
本当は昨日も一昨日もあった新たな一日
でも、そう思えなかった昨日も一昨日も。
だからせっかくなので新たな一日
新たな今日
新たな今月を感じよう。

今日、オレの都合なんか関係なく社会は回っている。
今日、東京でも長かった梅雨が明けた。
今日、地元の街は人が多かった。
今日、久しぶりに「太陽の下で汗をかいているなぁ〜」と思えた。
今日、久しぶりに「青空っていいなぁ〜」と思えた。
今日、外での仕事に行くのにドリンクを買い込んだ。
今日、「串カツ宮迫」が「串カツ田中」に戻っていた。

今日も
人間の都合なんか関係なく
全てはあたり前に在る。

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