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お風呂の季節です。

凡夫というは、無明(むみょう)煩悩われらがみにみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず

            親鸞


最初に、簡単に「今日の言葉」の説明を、わたしなりにさせてもらいます。

この言葉は、如来から「わたし」への「気づけよ」という促しです。
「気づいて、そこから抜けることを本気で考えてください」というお願いです。
凡夫(ぼんぶ)は「ただびと」とも読みます。
ただの人、つまり、人間のことです。
これを書いた親鸞も含め、どんなに優しかろうが、人徳があろうが、金を持っていようが、地位があろうが、人間国宝であろうが、関係なく、人間のことです。
無明は「見えていない、気づいていない」ということです。
つまり、煩悩に満ちていることも、欲・怒り・腹立ち・そねみ・妬みに絶え間なく侵されていることにも気づいていない「わたし」に、「そうなんだぞ」と、「実はあなたがいるところは暗闇で、あなたには何も見えていない、それどころか見えていないことにすら気づいていないんだよ」と教えてくれるのが「仏(仏法・仏教)」のはたらき(如来)であり、とうてい、自分で「わたしは凡夫です」なんてとこに立てるもんでもない、ということでもあります。
「凡夫よ」と「わたし」に呼びかけることで「人間」である自分を見つめることを促してくれ、救われることを願ってくれる如来に対して、どこまでいっても「凡夫」であることを嫌い、それゆえに闇路を歩んでいるという事実にも気づけずにいる、いや「気づきたくない」というところでしか生きれないという、親鸞から如来への告白、返答です。
そんな親鸞が示してくれた「わたし」だからこそ、「気づいてください」と願い、如来は「凡夫よ」と呼びかけ続けてくれているのでしょう。


で、ここからは、いつもの駄文。

いや、上記の自分なりの解釈も駄文なんだけど、ま、いつもの感じ。

昨夜は久々に湯船に温めの湯を張り、腰湯でゆっくりと浸かった。

半端でない汗が吹き出してきた。
どうも、身体に無駄な熱なのか、毒汁なのか、なんかよく分からんが溜まっていたようだ。
デトックスで出毒す。
と、ジジイらしいシャレを一人言しても、笑うどころか苦笑いする余裕すらないくらい息が上がってしまっていた。

お陰でよく眠れた!と、言いたいところだが、あまりの風呂上がりの暑さに、寝室の冷房を最低室温に設定して冷やしまくってから、寝る直前にエアコンを切って寝たのだが、寝落ちて一時間も絶たないうちに汗みどろで起きてしまった😅

室温はそれでも21度。
寝汗掻くような温度でもない。
でもアチイ。
再度エアコンをつける。
そのまま寝たら絶対にに風邪を引くなり、寝冷えするなり、体調を崩すので、汗が引くのと、若干室温が下がるまで30分ほど、ぼ〜と起きている。
で、エアコンを切って寝た。

これで、なんとか朝まで眠れたが、朝起きたら、まだ身体がポッポしている。

ここのところの長雨で、そうとう代謝が落ちていたようだ。

え?

ああ、そうですよ。
長雨のせいだけじゃありませんよ、代謝が落ちていたの。
はい。たぶんい要因は歳のせいです。
それは分かっています。
でも、年で代謝が落ちているのは年がら年中だし、ここまで毒汁が貯まるのは、冷えてしまっていたのは長雨のせいです。
歳のせいではありません!

って、これが分かったふりして分かってない証拠だ。
歳だと認めたくない自分が根底にあるので、体調の日々の変化を、外的要因のせいにしたくてならない。

ま、でも、気温25度を超えても、あまり汗を掻かなくなっているので、やはり夏こそ風呂で汗を掻くことは大事なようだ。

これ、もう何年も前から感じて、毎年、ちゃんと湯船に浸かろう、とやっているのだが、一年経つとすっかり忘れてしまっていて、基本夏の入り口はシャワーでごまかしてしまっている。

何が言いたいかというと、なにも分かっちゃいないなぁ、自分のこと、という事実。
風呂入って、初めて、外気温と体温と冷えとで身体が非常に蝕まれていたことに気づけた。
汗掻いてみて、身体が汗を掻いて、体温調節だか体内洗浄だかわからんが、どうにかしたがっていたことに気付かされ、風呂どころか寝てまでも汗掻いて、こりゃそうとう身体はストレス発散したかったのね、と気付かされた。

湯船が「気づけよ」と働き、身体は「はい」と応じ、「わたし」は理屈こねて、理由を無理くりつけて、身体のことを分かったつもり、今日も、なんでも分かっちゃうわたしになろうと必死なんだな。


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