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生=無意味

老人というのは、
人間の中の動物性が
極限まで小さくなった、
より人間らしい人間であって、
それは老人が本来評価されるべき点だと思うのです。
ぼくに言わせれば、老人は「超人間」なのです。
        吉本隆明

*注
[今回は、すごくクドいというか、ダルい内容になっています😅
 もし、読み進んでいただく途中で不快に思われましたら
 スルーしてください😅]

今朝、
親が大音量でテレビを観ている隣室から
漏れ聞こえてきた会話。

「あの世なんてないんですよ。
 来世なんてない。
 死んだら無になるんですよ。
 だから、死ぬまで生き抜くだけです」
「死ぬまで生き抜くって、よくわかります」
「わたしもそうあろうとおもいます」
「生きるという意味合いが違うんですよ。
 死ぬまで生きるぞ、という中で生きる。
 生に意味合いが出てくる。
 何もしないで生きるのとは違うんです」
「後悔なく生き抜く」

ま、こんなような会話。
よくある会話だ。
死を見つめて生を考える、
それはいいことだ。
「死ぬまで生きる」
ま、わからないでもない。

が、
けっこうツッコめるし、
考えが浅い。
ぬるい。

そう思えた。

まず
彼らは、
明日も生きているという大前提でしかモノを言っていない。
それでは生死は他人事になる。
明日というのは
未来というのは
彼らが否定したあの世、来世だ。
あの世、来世しかみずに生きている人間が
あの世も来世もに無い!というのは大矛盾だ。
おそらく
天国、地獄、浄土、極楽
そんなところを指してあの世、
虫だ獣だ鬼だ神だに生まれ変わる
それをさして来世、
そんなことで言っているのだろうが、
そうしたものを考えている時点で、
来世だの死後の世界だのあの世だのを定義づけ、
それに縛られてしまっている。
そこに気づかないと。

無になる=無くなる
そういう見方もどうかな。
すくなくとも無になるって、
「わたし」という認識
一切のカテゴリがなくなることだ。
「あなた」と「わたし」がなくなる。
明日とか、過去とか、時間とか、
生とか、死とか、そうした決め込みが無くなること。
あるケドない。
それがバリバリある世界にあっても、
今の社会にあっても、
すべてのカテゴリが無くなること、
生きたままでも。
これでもまったく「無」については語れてない。
そんな世界。
死んだら「無」になれる、
そんな風に勘違いしている。
そんなの死んでみないとわからんぞ。
もしかしたら、
マジでパラダイスがあったりするかもしれんし、
地獄があるかもしれん。
つまり死んでみたことないのだから、
死んだらどうなるかなんてわからない。

そこで、
親鸞という人は弟子に
「おっしょさん、死んだら極楽浄土に行けるのでしょうか?」
と問われて、
「知らん。死んだことないし」
と答えちゃっている。

死んだらどうなるのと思うのは
明日はどうなる
と、同じ悩みだから
ある意味、
正常なんだよ。

ふだん
死んだらお浄土に
死んだら天国に
死んだら地獄に
そうして悩んでいる人に
言っていることと同じことなんだよな、これ。

つまり
彼らの言っている
今は、
来世でしかないし、
夢見るパラダイスでしかないということだ。

問題なのは、
彼らは
それに気づかず、
いまを生きている
幻想に囚われず
しっかり生きていると思いこんでいることだな。
ここを、
今有ることを
大事と思えていないな、と。
死んだらどうなるのでしょう?
と、不安を抱える人よりも、
今を見ずに、
現実から目をそらしている。

それがよく分かるのが
「生きる意味の違い」
ということを平然と言っているところだ。

生きる意味を彼らは
なにか形を作ること
なにかすること
つまり
「わたし」にくっついている
事業や物品や名声
そんなものが生きる証だと思いこんでいる。
イコール、
そうしたものがない生は、
格が落ちるということになる。

ま、そんな言い方もしていないし、
そんな意味で言ったわけでもないのだろうが、
資本主義、能力主義で生活してきた人間の
気づかなうちに嵌められている落とし穴でもある。

その証拠が
「ただ生きるだけじゃ・・・」
そうしたことを言っている。

生きることよりも生き方のほうが大事になっている。

それが気に入らない。
で、こんなことを書き並べている。

生き方だの
生き様だの
社会的役割だの
社会貢献度だの
そんなものは二の次三の次だ。

ただ生き
ただ死す

そこが大前提だ。

生き方主義が
相模原で起きた障害者施設での殺害事件の犯人を作り上げてしまった。
能力主義が数多くの人権侵害を起こしている。
生まれた家や場所で能力の上下ができるという
とんでも勘違いの差別を増長させている。

社会で生きる以上
何かしらの意味付けを要求される。
だからこそ
そこのところはきちっと勘違いしてもらっては困る。
いのちに理由はない。
いのちに理屈はない。

いのちは
不可思議だ。
わからない。
わかってんじゃねぇよ!
と、言う言葉を常に頭に入れておきたい。
たまに、
いや、
彼らと一緒で
屁理屈でわかっているから。

なんだぁ。
そっか。
昔からだけれど、
おまえの言っていることわからないでもないけどさぁ〜、って
それで苛つくときって、
自分の普段の鏡になっているんだな。
あまりに愚かな自分がそこに見えるからムカつく。

なにかできるうちは
できることが正義になってしまっていて
本当のところが見えないし
怖くてみたくない。

だって、
なんかしようがしまいが同じ。
そんな風に気付かされたら、
【なんかすることで自身を保っていたわたしの、
「なんか」がまったく意味がなかったように思えてしまい、
自身の根っこ「なんか」の否定=わたしの存在意義の否定、
そこへ行きつてしまう。】
そんな勘違いを起こしそう。

「なんか」はやはり大切なんだよね。
自分を活かすためにも
自分を投影して見つめるためにも
「なんか」=自分、ではないということに気づくためにも。

「なんか」≠自分なのだから、
「なんか」が思い通りいこがいくまいが、
自分の否定をする必要はなく、
能力否定で止めればいい。

根源的な尊厳は変わらない。

それでも
「なんか」が何よりも大事な社会を大事だと思うのなら、
「なんか」で発展してきた現代文明、
船、自動車、飛行機、コンピュータ、ITの社会、
最も人間らしい「超人間」は老人である。
てのも一理はあるな、と。

でもさぁ、
「なんか」ってなに?
杉田某が言っていた生産性てやつ?
金になるかならないか?
そんなもんでなにがわかるの?

「なんか」も、
みんなそれぞれ持っている。
「なんか」に良し悪しつけて
「なんか」のくらべっこしてもね。
それだって、
人それぞれの価値観があるから
比べられないでしょ。

金持ちのAがそばにいても
バリバリ仕事ができるBがそばにいても
ちっとも面白くもなんともないけど
金も力も能力(社会が勝手に決めた)もないCがそばにいると幸せ、て、人もいる。

そんなあやふやな「なんか」よりも
比べられなくて
不可思議なのが「ただ或る」って世界なんだよね。

一切の命は
無条件で
等しく
尊い。



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