見出し画像

気持ちを声に出して話す事~元担任の先生とのご縁~




先週末の夜に、子供から連絡がありました。小学校時代の元担任の先生(現在は定年退職)から、近況を気にかけ、電話が掛かってきたとの事でした。
子供の親友が、小学生の頃からその先生とずっと年賀状のやり取りを継続していた事がきっかけになり、今年の春の帰省時、故郷から遠方での就職を直前に控えた子供と親友、そして先生方(元担任の先生2人)とで、久しぶりに会う機会を作り、居酒屋に飲みに行っていました。
先生達とは小学校卒業以来の再会でした。
貴重なご縁での再会だったね、と親子で話しました。

私は、以前noteに書いた記事内容のように(note記事  今の思い~宗教2世の子供達~)、子供に、宗教2世問題についての、私の気持ちを話していました。
そして、この記事を書いた後、春に繋がったご縁を思い出し、子供に、もしも、また先生と出会う機会があったり、連絡を取る機会があったら、無理のない範囲で、少しでもいいから、宗教2世問題について触れて、話してみてくれないかな...と。急いでとは思わず、もしも話せる、そういうタイミングがあれば、と伝えていました。
子供は、話題がピンポイント過ぎて、話せるかはわからないけど、了解、と言ってくれていました。


そして先日、先生の方から連絡があった際、子供が自分の近況を報告した後に、私が話していた事も伝えてみた、との事でした。
私は、先生が子供の近況を気にかけて、わざわざ電話をして下さった事にとても驚きましたが、こんなに早く、自分の話しが先生の耳に入るとも思っていませんでした。
先生は、私からも話しを聞きたいと言って下さり、子供が間を取り持ち、後日、先生と私が直接電話で話す事になりました。
いつか本当に話したいと、話せたらいいなと思っていましたが、予想以上にこんなに早く、話す機会が訪れるとは思っていませんでした。
話して今すぐ何かをどうにかしたいという勢いではなく、こういう宗教2世が身近にいて、思う事があり、その話しを聞いてもらいたい。先生は現在は現役教員ではないけど、少しでも子供達に近い存在の関わりがある方に、私の思いを知っておいてもらいたいという気持ちでした。


ただ、私は自分の気持ちや考えを、声に出して話す、という事に、とても苦手意識がありました。
文章にして書くという事は多少出来ても、頭の中で考えた事を声に出して話す、という事は本当にずっと不得手でした。
私は声に出して話せない...、話す事が苦手...という意識は、今も継続していて、現状、まだまだ克服出来ていない部分...と自覚がありましたので、
今回、先生に、何をどう伝えるかよく考えて、話す準備をしなければと思いました。
貴重な機会だと思ったので、伝えたい事はきちんと伝えたいと思い、出来るだけ簡潔にかつ伝えたい事が伝わるようにと、ノートに書いてまとめました。

昨日、電話をして話す事が出来ました。
せっかくの機会に、緊張して話せない事が無いように、心を開いて話すようにと、自分に言い聞かせ、努力しました。
先生の方も聴く姿勢を作り聴いてくださいました。
自分(先生)が話しを聴いたところで、何かをどうこう出来る訳でも無いし、何の力にもならないかもしれないけど、お母さん(私)の話しを聴いてみようと思ったので、との事でした。
それは、重々承知している旨お伝えしました。
準備したノートを頼りに話し、あくまでも私個人の体験の話しという事と、私が両親への気持ちを自分なりに整理する事が出来、乗り越えられた今だから話せる、という事を伝えて話し始めました。
1番伝えたい事として、今の宗教2世の子供達に私と同じ気持ちを味わって欲しくない、という気持ちを伝え、その理由として私の体験を話していきました。
そして幼少期からの成長期に、自分の気持ちを抑圧し、自分の感情を外に出さずにそのまま育ってしまう事が、その後の人生の大きな生きづらさになってしまうという事。
そして、その生きづらさを解消するために行った、自分の抑圧してきた感情との向き合いは、私は長年自分の本当の気持ちに気づかずに、放置して過ごしてしまっていた為、大変な辛さも伴う物だった事。
だから、こんなにも辛い思いをするのなら、子供の頃に、気持ちを抑圧するんじゃなかったと、近くに居た誰かに話せば良かったと心から思ったと。
そのため、今の子供達にも子供の頃に抑圧した感情をどうか作って欲しくないと強く思ったと、今日話したかったのはそういう理由からでしたと、話しました。


先生は、静かに真剣に聴いて下さいました。
そして先生からの話しも聞きながら、答えながら、話しが広がっていった中で、昨年末に厚生労働省から出されたガイドライン(「宗教の信仰等に関係する児童虐待等への対応に関するQ&A」)を紹介したり、少し躊躇いもありましたが、学校等での宗教2世問題に関する広報活動などについて少し訊ねてみました。
先生も言葉を選んで、考えながら返答して下さっていましたが、退職して数年経っている事もあり、そして約束の時間もきており、その事への直接的な何か返答は頂けませんでした。
話したい事はまだありましたが、時間に限りがありました。
多忙な中、時間を空けて話しを聴いて頂いた事にお礼をお伝えして、また話しましょうと言って頂いて、昨日は電話を終えました。

話しを真剣に聴いて頂いたと思います。それは本当に伝わってきました。一保護者の私の為にまで時間を作って頂いて、本当に有り難いと思いました。本当に感謝したいと思いましたし、しています。
ただ、感謝の気持ちと、もう1つ感じた事実がありました。
私は一生懸命伝えて、先生には親身に本当に傾聴してもらえたのに、伝わらない感覚が残った事でした。
伝えたい側と、聴きたい側、お互いにそういう思いと姿勢だったはずなのに、なぜか圧倒的に伝わらない感覚を感じました。伝えるという事が本当に難しい事だと実感しました。
善い悪いは関係なく、先生の宗教2世の捉え方と、私が伝えたい宗教2世とが、乖離していると感じました。


それは、たぶん、他のいろいろな立場や環境の違いの人にも普通にある事で、実際に○○を体験した人と体験した事がない人の捉え方や感じ方の差や違い。きっと私も含め誰にでもあるものと思いました。
実際に体験していない人は、体験した人の気持ちを理解する事はなかなか難しい。
逆も、かな、と思いました。
実際に体験した人は、体験していない人の気持ちを理解する事はなかなか難しい。
お互いにそう、と思いました。
だから、本当に何かを伝えたかったら、お互いに理解し合えるように歩み寄ろうとする事。
お互いに理解し合おうとする事が大切で、相手の話しをよく聴いて、自分の話しもどう伝えたら相手にわかってもらいやすいか、伝わりやすいか等を考えて伝える必要があると思いました。
希望する全部は伝わりきらなくても、心を開いて、真摯に伝え合う努力が大切だと思いました。
昨日私は、話している途中から、会話が噛み合っていない感じがして、伝えたい事が伝わっていない...と感じ、時間に限りもあったので少し焦り、伝え方をどうしようと悩み考えつつ話しました。
会話のキャッチボールがズレていく事を感じて、私は話したい事に戻そうとするのですが、出来ず、思いを伝えきる事が難しく思いました。
たぶん、自分が自分の話す事に意識を向け過ぎていた気がしました。
途中からか、最初からか、伝えたいという気持ちが先行し過ぎてしまっていた。先生の話す言葉をもっと聴く事が大事で、よく聴いて、それを私がちゃんとすくい取って、その上で話す事が大事だったのかもしれないと思いました。


私が途中、焦りを感じてしまった事が良くなかったかもしれない...と思いました。
先生の話しに対して、私がわからない事はきちんと聞き返して、そこからのルートで話しを膨らませられたかもしれないのに、少し焦ってしまった為にそう出来ず、自分が考えた話しのルートに戻そう戻そうと、予定に引っ張られてしまったと感じました。
準備したノートが残念ながら途中から少し裏目に出てしまったかもと思いました。
話している時、出来なかったのですが、後になってから、あの時先生がああ言ったから、先生の視点に私が寄ってみて、こう話したらよかったかも...、ああ言えばよかったかも...、という気持ちが湧きました。
話す準備は大事だと思いましたが、1番は自分の中で、自分が何を伝えたいか、という事がはっきりしている事が大事だと思いました。
それがしっかりしていたら、それに向けて、いくつかの予定外のルートを通っても、話しを進めていけるんじゃないかと。それには、聴く姿勢、が大事だった...と思いました。

体調やホルモンバランス等でも、時々揺られ弱い気持ちにもなり、それと、今日みたいな反省事案等が重なると、どっと脱力感、無力感も感じて少し心が弱音を吐きます。
頑張ったのに伝わりきらなかった...とか、私の話す能力と、聴く能力がやっぱり全然足りなかった...とか、私の伝えたい気持ちが急ぎ過ぎてしまった...とか、いろいろ考えてしまいました。
こんな時は、自分を優しく労り、早めに休む事と切り替えました。
今日は、話しが出来た事、親身に聴いて頂けた事、また話しをしましょうと言って頂いたし、これで良かったと思おう、と思いました。


今日は今日で、自分なりだけども出来る事を頑張った。心を開いて話す努力をした、伝えようと頑張った、1番伝えたかった事は伝える事が出来た、と言い聞かせて、ゆっくり休む事。
話す機会に恵まれて、何の力にもならないけれど、今日の私に出来るだけの事はしたと思おうと。
この後は、もしかしたら何かに繋がるかもしれないし、何にも繋がらないかもしれない。出来るだけの事をして、その後の展開や結果には執着しない事。
何も期待せずに、コントロールもせずに、自然な流れに任せようと思いながら休みました。





お読み頂き、ありがとうございました。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?