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伝える愛 伝えない愛 無条件の愛とは①~母親と似ていた私~




前回の記事を書き終えた後、自然な流れで、両親との事を思いました。


私は、子供の頃や、大人になってから、両親に、自分の言葉をどんなふうに伝えていたのだろう...。と、考えました。
話す事が不得手な私です。前々回の記事の中に書いた理由で、話し方、言い方、言葉選び等が本当の気持ちとはズレてしまう(たぶんその場に合っていない)時が多々あっただろう事から、相手に誤解を与えてしまいがちな私だったとしたら...、
私から両親に話したり伝えたりした数少ないその言葉も、きっと、本当に伝えたい言葉、で伝わらず、私の本当の気持ちも伝わった事は無いのかもしれない...と思いました。


それに、私は両親に何を言っても、宗教教義や信仰心が間にある為に、いつも私の気持ちは否定され、受け入れられないんだ...と思ってから以降は、もう伝わる事は一切無いと思い、諦めて、自分の本当の気持ちを、伝える事はして来ませんでした。
大人になってからも、自分の気持ちを、自分の言葉で伝えるスキルが無いと思っていた為に、両親に対して、自分の本当の気持ちを、正確に表現しようとする事も、伝えようとする事も諦め、向き合わず、避けていたように思います。
言葉にしても、きっとまた否定されて、きっと伝わらないのだから。きっと、私の本当の気持ちは正しく伝わらないから。きっと誤解され、捻れて歪んで伝わってしまうから。
そうしたら、今よりまたもっと関係性が悪化してしまう。また、お互いの事で、考え、思い悩まなくてはならない。
関係性を今より更に悪化させるような事や、気持ちを波立ててかき乱すような事は、敢えてもうしなくてもいい事...。だから、何も言わない。言葉にしない。と思っていました。


以前、私は両親と関わると必ず心を傷つけられる、必ず傷つくと、思っていました。(note記事 私の過去⑨~結婚・排斥~)
そして今回の向き合いで、私も、私は言葉を発すると人を傷つける、そして自分も傷つく...と思っていた事に気づきました。共通している...と思いました。

私は、私に対して心無い言葉を無神経に言ってくる母親と、私自身が重なりました。


父親からも人格を否定するような言葉を言われ、深く傷つき、許し難いものですが、百歩譲ってそれは父親が宗教教義に染まりきっていて、その言葉は宗教教義に対する強い信仰心と、それ故の私への間違った形の愛情が言わせたと思える部分がありました。
でも母親の言葉はそれとは違うものでした。
母親の幼い頃の生育環境が、成長期の環境が、母親に影響を及ぼしている。はっきり知る事は難しいですが、母親の実家も機能不全だったかもしれない。たぶん家族連鎖している。
そして、私は母親に育てられている。似ていない訳がないかもしれない... ...。抗えない事で、親子なんだから、母娘なんだから、似ているのかもしれない...。
... ...似ているんだ...。そう思いました。
...正直似ているなんて嫌だと思いました。ショックを受けて、しばらくの間落ち込んでしまいました。自分にとって大きな向き合いを終えた直後の疲れの余波や、満月の影響をいつもよりも強く感じて、感情の揺れが大きくなりました。
母親と似ていたという事は、私がしていた周囲や誰かへの言葉掛けは...相当に無神経なものだったのだろうか...。
自分では気をつけていたつもりでも、自分の事はわからない...。
もしかして、私は、知らず知らずに、無自覚に、私は自分で思っている以上に、誰かを、話す相手を、傷つけてしまっていたのだろうか...。
...そうかもしれない...。そう考えて、何とも言えず悲しくなり、更に落ち込みました。
...もしかして...全部...、私が...悪かったんだろうか...。
気持ちが落ちてしまい、思考が混乱して飛躍し、今までのいろいろな事の全てが、全部自分が悪かったのだろうか...。全部私が悪かったのだろうか...。と、そんなふうに考えてしまい、脱力し、自然に込み上げる涙と共に、感情が自分の中を流れ動いていく事に身を任せ抵抗せずに過ごしました。





樹海の糸/Cocco




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気持ちの自然な流れに添いました。感情を感じきった後、気持ちは動き、それに添いました。
いや...、でも...、母親の言葉掛けは、母親自身の課題のはず...と思いました。そして私の言葉掛けは私の課題...だと思いました。
そしてそれは、別々のものだけど、母親も、私も、お互いに、同じ課題。お互いに、伝える事、伝え合う事が、相当に下手だったという事かぁ...と、腑に落ちました。泣いた後、笑えてきました。
そしてその後、私は自分なりには、話し方に気をつけてきて、どうにか頑張って生きてきた...と思い直しました。
そして私の言葉掛けが、相手に誤解を与えやすいものだった事は事実だと自覚していて、母親も、もしかして私と同じような体験をしたかもしれない、と思いました。
言葉を伝える事で悩み考えていたかどうかや、生きづらさを感じていたかどうかはわからないまでも、母親自身も、きっといろいろな事に思い悩みながら本人の人生を精一杯生きていて、母親は自分で選んで父親と同じ宗教に入信し、その後の日々の拠り所を得て、生きてきたのかもしれない...と思いました。

私はこの向き合いで自分なりに気持ちの整理をした後は、両親と私とは、自然な必要な流れでの巡り合わせが無い限り、お互いの為に、もう無理には会わない方がいいのかもしれない、と思っていました。
もしも、今世、生きて会うとすれば、お互いに会う事で気持ちの摩擦が起きなくなってから。
例えば両親ともに、私の事を自分の娘だとの認識が出来なくなった時に、もしかしたら、お互い心穏やかに会えるのかもしれないと。その頃に、会う必要があれば、私は自然な必然な流れで、会う事になるかもしれない...と思っていました(います)。
ただ、長い別離を体験し、自分との向き合いを経験し、気持ちが整理されたこの機会に、私から、今の気持ちを伝える為に手紙を書こうか...、どうしようか...と、いう考えが思い浮かびました。気軽に会える関係ではないし、話して伝える事が不得手なので、文字で伝えるのはどうだろう...と思いました。


手紙を、書くかどうか、まだ、わかりません。しばらく、...考えるかも、しれません。考えて、やっぱり...書かないかも、しれません。
もしも万が一書いた場合、と考えると、私は、幼い頃の辛かった気持ちも書いて、責める事等はせずとも、その影響で苦労した事を伝えてしまいそうにも思います。自問自答しました。
そんな事を、今更、両親に伝える事はどうなんだろう。意味はあるのか。いや...意味は無いよね...。こんなに年月が経ってから、そんな昔の頃の事を伝えても、両親は戸惑うだろうし、辛い気持ちになるかもしれない。
わざわざ手紙を書いて、両親に辛い気持ちをさせるの...? そんな事しなくていい...、そんな事がしたい訳では無い...、ぐるぐる考えてしまいました。
私は、もしも、手紙を書いたなら、いったい何を、両親に伝えたいのか...。
焦らずに、時間を掛けて、考えようと。気持ちの動くままに、任せようと思いました。

少しして、あ... ...伝える事に執着しない事、そして結果も求めない事...と、思い浮かびました。
伝える事に執着しない...、結果も求めない...。
伝えたい気持ちで話すけど(書くけど)、伝わらなくても良いような心持ちで話す(書く)。数日前に思った事を思い出しました。
そうしたら、私は、今、気持ちを楽にして、私の中にある素直な気持ちを、伝えたらよいのかな...、伝えてもよいのかな...、と考えました。
また迷いの中。私は考える事が好きなのだろうか...と思いました。好んで考えようとは思わなくても、自然と、頭の中が動いてしまうのです。


手紙を書くと決めてもいないのに、もしも書くならば、という設定で、考えてしまいました。
まず、自分の素直な気持ちは、最優先に、大切にしようと思いました。
それから、伝える場合は、宗教教義を信じた父親から虐待を受けたけれど、その事と、私が経験した事の事実を切り離す事。切り離して、伝える事。だと思いました。
両親共に過去から現在も信仰している事実があり、
宗教教義を信じる事は誰にとっても自由という事。
今の私にとっては、もう教義については触れなくてもいい事でした。自他尊重のコミュニケーションという事が思い浮かびました。
お互いの価値観の違う部分、話しても決して混ざらない水と油の原因部分は、取り除いて話すほうがいいのでは、と思いました。
だから、宗教教義や信仰心は、横へ置いておいて、あくまでもニュートラルに両親と私の事についてを伝える、と考えました。


当時、両親には宗教教義を信じ信仰しながらでも、実際に、子供にしてもいい事と、してはいけない事の判断を、親として間違えてほしく無かった、という事。
自分達の育て方が、子供の心身の生育に直結する事、その後の生育に大きな影響を与えるその事に、気づいて欲しかった。気づいて、親として、人としての判断をして、叩かないで欲しかった。
数々の制限をしないで欲しかった。言葉で人格を否定しないで欲しかった。
子供の自然な感情を、そこからの自然な言動を表現する事を、抑圧しないで欲しかった。
そのようにされて育ってしまった影響は、子供の頃にはすでに現れていたけど、気づかないまま、大人になり、その後、大きな弊害となって現れた事。
私が高校生卒業時で宗教組織から離れ、神への信仰心を勝手に放棄したからそうなったとか、そういう事では全く無くて。
宗教教義への信仰心の有無は関係なく、親として、無条件に、子供が自然な感情を感じる事、それを自由に感じてありのまま表現する事を、大きな愛情で受け止め認めて、肯定して関わって欲しかった。温かい愛で守られ、心身の安全と安心感を感じて育てられたかったという事。
この事が、両親に、伝わるだろうか?と思いました。そして、こんな事を、(いくら私は正しいと思う事でも、子供の私から親へ言うという意味で)私は両親に伝えられるのだろうか?伝えていいのだろうか?伝えてはいけないだろうか?伝えるべきなのだろうか?伝えるべきではないのだろうか?(伝えないという意味)...と思いました。


もしも、本当に手紙を書いて、気持ちを伝えると仮定したら、私は、何を、どこまで、伝えるのだろう。
何を、どこまで伝える事が、適切なのだろう...。
何を、どこまで伝えたいのだろう...。
私が向き合いをしてわかった、両親への気持ちを伝える事の方が大事なのでは?でも、私は自分自身の事も気持ちも今までの人生も大切にしたい。経験した事を何も伝えずに、両親に感謝の気持ちだけを伝える事は、今の時点の私は出来ないと思いました。
どこまで、私の話しが、感覚が、両親に誤解なく伝わるのだろう?何を、どんなふうに伝えたら、両親には、届くのだろう?
宗教教義とは切り離す事。宗教教義の正誤を議論したい訳では無いから混ぜない事。私が伝えたいのは、親子の事、と思いました。
でも、両親の心身にはきっと宗教教義が染み付いています。でも、だからこそ、宗教教義や信仰心とは、分けた内容にして、親子としての話しをしないと、たぶん何も伝わらない。
信仰心を大切にしている人でニュートラルな人はきっとたくさん存在すると思います。両親はニュートラルなのだろうか。
もしも、現在の両親が、強い信仰心でもしも教義に偏った考え方で人格が完成しているのなら、私がニュートラルな状態を意識して、親子としての話しをしても(手紙で書き伝えても)、全く何も伝わらないんじゃないか...。
だとしたら、こんな話しを伝える事は何にもならないかもしれない...。そしたら、やっぱり何もせず、何も伝えないでいる事のほうがいいのだろうか...。
伝えるという事と、その結果に執着しないとわかりつつも、こんなに考えてしまう。
考え過ぎて、頭がショートしそうだと思いました。頭が痛くなり、さすがに自分自身に、考える事をやめようと言い聞かせました。焦る事はない...、時間を掛けよう...と思いました。



Voyage/浜崎あゆみ



お読み頂き、ありがとうございました。





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