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守りたい私と守られたい私。理想と現実の狭間で書き続ける日々

 今日は、呪術廻戦の乙骨憂太くんお誕生日ですね。Twitterが賑わっているのを見て、気がついた。え、そしたら乙骨くん何歳になったの?18?
 どちらにせよ、最近は推しの平均年齢がどんどん下がっていくことに悲しい通り越して呆然としている。
 実際は私自身の年齢が年々重ねているからっていうだけなんだけどね……。

 いわゆる大人の仲間入りをして早10年は経った。
 この10年で早急に社会の荒波に流され精神を病み、結婚をし出産をした。
 今じゃ一児の母。夫の妻。嫁と、あらゆる肩書きを背負い、日々重ね過ぎた仮面で前が見えないどころか自分も見失っている始末。

 このご時世にしては比較的若くして人の子の親になった。
 だから、ちょっとあけすけすぎるんだけれど、これで私がずっと憧れていた大人になれた!なんて達成感すら感じていた。

 が。

 そんなことはまったくない。ありえないのだとこの歳になって擦り切れるような痛みを感じながら思っている。

 本当は、ここに書くにもちょっとした勇気が必要だった。
 だって、今の若い子たちよりも安直で幼い精神のまま大人になっちゃったことをこの記事を読んでいる誰かに打ちあけて知られるわけでしょう。すごく怖くて。
 あとは、ちょっとしたプライド。小心者のくせにプライドだけは一丁前にあるなんてそれこそまた恥ずかしい。

 (今だと呪術廻戦を例に挙げるけれど)乙骨憂太くんや虎杖くん、伏黒くん、野薔薇ちゃん…みんな10代なのに、彼らの方が大人なんじゃないかとさえ思う。
 世界線を思えば、それこそ過酷な環境だし生半可な気持ちや覚悟では生きていけないのだろうし、毎日が生死を分ける日常なのだとしたら、ここまで成長するのも自然なのかもしれない。比べて、私は過度な温室育ちだ。なんというか、比べるまでもなさすぎて辛い……。

 何を書きたいのかというと、私は大人に化けた子どもだなっていうこと。

 私の心のキャパシティは、少なくとも身近な大人、夫よりは格段に狭い。
 単純に背負い込む量が許容範囲を超えているというのが一因なのはわかっているが、そもそもこれはHSPがゆえの気質の問題がある。あとは、その気質があることを知らずに生きてきたこれまでの家庭環境のことも。

 無意識に、望んでいない情報を取得する。
 逃げ場所のない幼少期。理解されない両親に怒られ、自分がおかしいのだと自責する日々。とにかく怒られることが(正確には怒鳴り声)怖くて、日々顔色を窺う生活。

 人の顔色と声には敏感だった。あとは、暮らしの中にある少し乱暴な音なんかはもう受け入れがたかった。その中で染み付いたくせというのか……。そういうことは、親元を離れた今でも抜けていないと感じる。

 ずっと、ひとりで生きていくつもりだった。
 誰かに振り回されるのはごめんだった。

 こんなに神経すり減らして、家族にすら大切にされない、と夜ベッドで枕を濡らすくらいなら、ひとりでいた方がよっぽど気楽だった。
 きっと私は、ワーカーホリックまでは行かなくとも、そうした世界でずっと生きていくのだと決めてすらいた。気を遣うのは、プライベートではしないって。仕事だけでいいと。

 でも人生とは不思議なもので、そんなことを無かったことにするように生き方を変えてしまう分岐点が訪れたりする。あとはその時の自分の気持ち次第。

 私が結婚し子どもが産まれることすら想像できなかった。あの頃の私が今の私を知ったら、この今の姿になんというだろう。

 「信じられない!」
 「道を誤ってる!」

 そう、罵られるだろうか。兎にも角にも、きっと驚くに違いない。

 子はかわいい。
 産んでしばらく、産後うつなるものを経験したのもあって、それはそれは素直な気持ちでそう感じられるようになったのは多分人より遅かったとは思うけど。今じゃ大切な存在。

 大切にされなかった。守られてこなかった。
 きっとそんなことはなかったんだと思うけど、でもまだ幼い頃に感じた気持ちが消えずにずっと私の中に燻っている。

 だから、息子を大切に、守ろうとする気持ちは強いと思う。
 ただそれがいわゆる過保護に行き過ぎないようにすることは忘れない。行動を、気持ちを縛られていきた私にあったような『過保護』にはならないように。

 でも、人間は心に余裕がないとどうしてか自分がされたことを人にしてしまうと言う。これが何世代にも続くのだと。
 結局、キャパシティの狭い私は、気付かぬうちに同じことを子に強いているのだと思う。心当たりはある。それがまた悔しくて悲しくてたまらない。

 こんなとき、情けないけど。誰か私を守ってほしいと、そう思う。……誰か、なんて言っているけどその誰かは分かり切っている。夫だ。
 夫に、私を(私の心を)守ってほしいと思う。息子を守れる母親になれるように守ってほしいと思う。

 かつての私が書いている物語に出てくる女の子たちは強い子ばかりだった。……否、強がりが上手な子たちが多かった。それはきっと、どこかで自分の中にある満たされないを昇華しようとしていたのだと今になって思う。
 でも最近書いているのは、一緒に強くなろうっていうテーマをベースに書いているところがある。手グセで書くとだいたいそんな作風が多い気がする。きっと今、わたしは一緒に生きていける人を求めているのかもしれない。

 ずっと強く生きていたかった。
 ひとりで、誰にも気を遣わず立っていられる女になりたかった。
 今では普通に聞く。自立系女子だったかな。そんな作品をチラホラと聞くようになった。そんな私でいたかった。
 ……多分、母親がこの真逆のような人で。尊敬できる女性ではなかったから。私はたぶんずっと、母親みたいな女になりたくなかった。今もなりたくない。

 だから今、夫に守られたいと思っている私がすごく嫌い。でも悔しくなるほど、望む気持ちは大きくなる。幼い私が感じられなかったものを、夫に求めている。期待している私がいる。

 けど理想の私は、お互いに寄りかかるんじゃなくて支え合う形で立っていたい。

 ジェンダーレスの時代にもなった。男女平等。私は嬉しかった。男に生まれたかったと思ったことがあるくらい、女という性に悩んだこともあったからだ。

 こんな時代が来てくれたこと。でも心の奥底にいる私は、かつての風潮であった女の立場を利用して、夫に守られたいと願ってる。

 強くなりたい。
 女だからとか、妻だとか母親だとかそう言うのじゃなくて。私が、私自身として強くなりたい。

 ここまで書いていて思うのは、大人ってみんなそんな欠損があって痛みを抱きながら、生きているんじゃないかっていうこと。

 私みたいに、大人になればすべてが変わると思ってる若き子たちに伝えたいのは、その痛みを宥め癒し、時に再発させても自分で自分を生きられるようになったら、大人への一歩を踏み出せたんだと思うよ。そう……伝えたい。

 理想と現実の狭間で、私はどうやって私を生きていけるのか。

 そんな自分と向き合いながら、今また執筆中の物語を書き始める。


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