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「二人ならば一人でいるより、考えることも行為することも、いっそうよくできるものだからである」

■アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』

二人ならば一人でいるより、考えることも行為することも、いっそうよくできるものだからである。 ー 186ページ
善き人々は互いに自分自身のゆえに友人となることができる。なぜならかれらは、善き人であるという点で友人だからである。 ー 208ページ


この『ニコマコス倫理学』は、私がこれまで「哲学」というものに対して抱いてきたイメージを変えた。

そもそも哲学書なるものをほとんど読んだことがない。苦手意識があって避けてきた。記憶にあるのは、いずれもこの一年以内に読んだ

・ショーペンハウアー『幸福について』『読書について』
・セネカ『人生の短さについて』
・アリストテレス『ニコマコス倫理学』

これだけ。たったこれだけで、哲学について語っていいのかわからないけれど、私個人としてはその点をあまり不安には思わない。

なぜなら、たしかに哲学書は読んでこなかったけれど、自分なりに哲学してきたと思っているから。逆に、だからこそ「哲学書をあえて読む必要性を感じなかった」──と言ったほうが正確かもしれない。


「哲学書をあえて読む必要性を感じなかった」のは、哲学書というのは個人(著者である哲学者)の考え方を言葉にして伝える本だと思っていたからだ。ショーペンハウアーを読んだ時の感想にも、その印象が如実に現れている。

しかし、この『ニコマコス倫理学』は様相が違った。

アリストテレス個人が考えたことをまとめている本なのだが、それは、ショーペンハウアー『幸福について』を読んだ時の印象とは全然違う。

この哲学は、文学とは似ても似つかない

アリストテレスの哲学は、世界を、人間を、愛を、家族を、友人を、苦楽を、神を、自然を……あらゆる物事を論理的に説明する場だった。

「私はこう思う」「あなたたちはこうしたら良い」とただ伝えるに留まらず、それらを全て体系化する。体系化し、証明する。反対意見を論駁する。補強する実例を挙げる。また起きうる反論を否定する論拠を示し、現実的な実践を提案する──そのような、丁寧な、時に丁寧すぎるようにも思える一連の論理展開があった。


だから、この本を読む価値は「アリストテレスという人の思想を知るため」ではない、と私は思う。

もし思想を知りたいのなら──例えば、愛とは何か?愛についてアリストテレスはどう定義したか?を知りたいのなら、ざっくり解説してある本を読めばいいと思う。ウィキペディアでもいい。

そうではなく、この本を読む価値は、上述のような論理的な説明の、体系化の過程と丁寧につくられた骨格を味わうことにあるのではないか。

こうとも言える。この本を読む価値は「アリストテレスという人がどのような思考回路で目の前にある物事を捉え直し、理論の骨格を構築したかを知るため」にある。

そのように私は感じた。

──となった時に、ここであえて先生の考えをああだこうだと論じるのは非常に野暮というか、一部を取り出すことにはなんの意味もなくなる。そもそも一読しただけで私は骨格をまだ理解しきれておらず、まだ「うわー、なんかすげー!」ぐらいなので、うまく説明できない。笑

という言い訳を先に述べたうえで、忘れてしまうのも残念なので、具体的にも取り上げたいと思う。


私の心にいまもっとも響いたのは、以下の内容だった。

相手のために親切なことをする人々の事情もまた、この種の事実に似ている。なぜなら親切の恩恵を受けた相手は、かれらの「作品」だからである。それゆえにかれらは、この「作品」となる人を、作品となる人が「作り手」の自分を愛する以上に、愛している。 ー 310ページ

ここだけ抜くとちょっとわかりづらいと思う。「作品」と出てくるのは、例として職人や詩人がつくる「作品」をその前に挙げているからだ。

先生の言いたいことをざっくりまとめると、「誰かに親切をほどこすと、人は、その親切をほどこした相手をあたかも自らが作った作品のように愛する」ということだ。

わかりやすいのは、親が子に抱く愛情。自分が手塩にかけて育てたので、自分を投影するかのように(自分の作品のような意識で)愛する。がしかし、親切にされた相手(この場合は子ども)は、そこまで恩を感じていない……という痛い指摘が続く。

この「親切ゆえの愛」は非常によく見られる現象だと思う。多くは無意識だ。自分が相手に対して「これだけのことをした」という意識が、気づかぬうちに相手への期待(=これだけやったからきっと相手は良い方向に進むだろう、良い人間になるだろう、そうであって欲しい)を形成し、期待した通りになったら(無意識に)自分の功績に含めようとするし、期待した通りにならないと(無意識に)不満を抱いてしまう。

アリストテレス先生はこの件を特に肯定も否定もしていないが、私は少し恐怖感を抱いた。こういう感情を知らずしらずのうちに誰かに抱いているとしたら、かなり嫌だな、と。

このような親切が生む愛情は、たぶん、先生が言う最も良い形の愛・友愛(相手の善を願うこと)とはちょっとズレると思う。

それから、下巻における重要なテーマである「愛」について、また「思慮深さ」「快楽」「観想」などについて。

これらは一つ一つで記事にしたいぐらい深くて面白い内容だったのだが、誤解を恐れずにまとめると、そんなに新しい発見はない。いわゆるパワーワードやキャッチコピー的なものがあまりない(そういう観点でいえば、上巻の中間性/中庸のほうがゴシップ的な意味で面白いワードではある)。

だけど、先ほども書いたようにこれらすべてを貫く論理展開にこそ『ニコマコス倫理学』の価値がある、と私は思う。さらには、この論理の全体を俯瞰して捉え、自分の頭で考えなおし、生活し、時が経ったら再び思い出して──という営みがセットにならないと意味をなさない哲学だと思う。(ま、哲学ってだいたいそうなんだろうけど。)

私は概ねアリストテレス先生の考え方に同感だった。特に好きなのは、経験を重視すること。どんなに頭がよくても生まれがよくても、善く生きなければダメな人間になってしまう。だからちゃんと考えて行動して、反省しながら生きて、幸福になれよ!という感じが好き。

良い人間になりたい。幸福になりたい。

……とシンプルに思わせてくれるようなバランス感覚が、先生の言葉にはあるんだよね。世の中を過度に悲観はしないけど、安直でもない。ほどほどに「なんかできそう」というバランス。


あらためて、幸福になりたい。スピリチュアルな意味ではなく、生きる目的として。

他力本願ではなく、自分の力でなりたい。そのために徳を高め、良い友人をもちたい。自分の観想的生活も大事にしたい。なんだろう、まだ理解できていないことたくさんあるけれど、今は素直にそう思っている。そしてまた経験を積んだらこの本に戻ってきたい。


※上巻のレビューは以下。


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