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【読書】私たちの思考は言葉に縛られているのだろうか?

■ジョージ・オーウェル『一九八四年』

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2022年2月に始まった戦争が語られる際に、しばしば引用されるディストピア小説。私がこの本をブックオフで手にし読了したのは、戦争が始まる直前のこと。全く別のきっかけであった(詳細は「編集後記」にて)。

とても有名な小説で、重く長いストーリーでありながら一気に読ませる迫力がある。そのあらすじについても語りたいことはたくさんあるのだけど、私の心に深く刻まれているのは「付録」、つまりおまけの部分に書かれた内容だ。

『一九八四年』の世界では全体主義の体制が敷かれ、国民に対して激しい思想の統制が行われる。その思想統制の主軸とも言える言語「ニュースピーク」について、巻末に「付録:ニュースピークの諸原理」というタイトルで詳しく記されていた。

ここの読み応えが素晴らしく、思想的な是非を抜きにして、たくさん考えさせられた。少し細かくて主題から逸れた話になってしまうけれど、フォーカスして書いてみたい。

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『一九八四年』に描かれる世界において目指されたのは、「ビッグブラザー」という指導者への盲目的な信仰である。そのために生み出された言語がニュースピークだ。

ニュースピーク(オールドスピーク:古い言語、に対してのニュースピーク:新しい言語)には、以下のような特徴がある。※このまとめは独自のものです。

  1. 単語の総数を極力減らし、それぞれの単語に付与される意味を単純化する

  2. 政治的にそぐわない思考のための語を削除する

  3. 単数・複数形、過去・現在・未来形ほか、男性・女性名刺等による複雑でイレギュラーな活用を廃止し、統一する

  4. 発音する際の快い響きを重視し、できるだけ短く容易に発音できるよう適宜単語を短縮する

詳しい解説は本文に譲るとして(すごく面白いのでぜひ読んでいただきたいです)、これらの目指すところは、簡潔に説明すれば「深く考えられないような人間をつくる」ことだ。

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たとえば、1【単語の全体数を極力減らし、一つの単語に付与される意味を単純化する】について。

「自由(free)」という単語はもともと「政治的に自由」という使い方もできる。しかしニュースピークではその意味が消去され「物理的に束縛されていない」という意味のみとなる。「政治的に自由」という思考自体を抹消したいからだ。

とはいえ、「明日からfreeの意味はこうです」と宣言されたところですぐに意識は変わらない。新言語体系への移行は何世代もかけて行われ、次第に「政治的に自由」という意味が人々の脳内から失われていく。

人間は思考するための言葉を失う時、その思考すらも失う──。この理念に基づいてニュースピークは形成されている。恐ろしい考えだが、私の好奇心は強くくすぐられた。


以前、ポール・オースター『孤独の発明』の感想文を書いた際に、私は以下のように記した。

“オースターは苦痛を抱え、それを正面から直視して自らの中に抱えこみ、なおかつ「文章」という形で記すことができる人だった。彼の孤独や苦しみがここまでリアルに匂って届くのは、彼の果てしなく深い語彙、あるいは感性ゆえではないだろうか。”

“確かに私は日本語を母国語にしている。でも、普段は疑わないだけで語彙の不足が私の思考を縛ってはいないだろうか?ふいに、不安になった。
 「語彙」は、ただの洒落た言い回しではない。言葉と経験がセットになった「語彙」はすなわちその人の「感性」でもあるのだ。
 思考は、言葉で行われる。他人に伝えるためには言葉で表現しなければならないから、言葉で思考しなければならない。
 であるならば、ツールたる言葉の語彙が不足している場合、私の思考はお粗末なものになっているのではないだろうか。英会話で感じたもどかしさと同じように。ただ普段はそこまで深い思考を必要としないから、気づいていないだけで。”

私が当時感じた「自分の語彙不足」に対する危機感が、まさにそのまま政治的に利用されている場面を目撃した気分だった。もちろんこの小説は完全なるフィクションであり、実験されたわけではないだろう。だが、もし実行されたらどうだろうか?インターネットを有してしまった現代で実行するのは果てしなく不可能に近いけれど、もし、もしも……。

正直に白状すると、私はその実験に対して純粋な興味を抱いてしまう。

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さらに驚きに満ちていたのは4だ。【発音する際の快い響きを重視し、できるだけ短く容易に発音できるよう適宜単語を短縮する】。これによって、単語から連想される意味がよりシンプルになり、人々は早口になり、アヒルがまくし立てるような思考停止状態の会話になる──というのだ。

本文では例として「共産主義者インターナショナル/Communist Internatinal」とその短縮形である「コミンテルン」が挙げられている。確かに前者を口にする時、物々しい考えが頭を駆け巡る。しかし後者を発音するのは一瞬で、ペタっとレッテルを貼るような気軽さがある。

先ほどの語彙の制限と、この響き(リズム)の制限が相まって、口をついて出る言葉が思考をきつく縛るのだった。

これは余談だけれど、伊藤計劃『虐殺器官』で似たような話が出てくる。十年以上前に読んだので細かいことは忘れてしまったが、なかなか面白く読み応えのある小説だった。しかしあちらは肝心の理論の詳細がそっくり抜け落ちていて、物足りなかったのだ。

『一九八四年』では、かつて『虐殺器官』で物足りなさを感じた詳細がリアルに設定されかつ描写されており、底力を感じた。この設定を整えるほうが本編より大変ではないだろうか?

『HUNTER×HUNTER』の冨樫義博は全てのキャラクターの設定を綿密に考えながら描くらしいが(だから遅い)、通ずるものを感じた。

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もし日本語に、「しとしと」「ぴちゃぴちゃ」「ざーざー」「ぽつぽつ」という細かな表現の分岐がなければ、私たちは梅雨の雨をどのように受け止めるのだろうか。

「今日は雨がしとしと降っているなぁ」と言いたい時に、それを言い表す言葉自体が一切存在しなければ、なんとなく歯痒いながらも「今日は雨が降っているなぁ」で終わってしまうのだろうか?

その時私はしとしとと降る雨の物憂さ、気怠さ、少しまるい甘さを楽しむような感受性を、心の内に育むことができるのだろうか?

その感覚をなんとかして他人と共有する術は、言語以外にあるのだろうか?

一体私の脳内の思考のどれだけが言語から自由なのだろうか。それとも言語から自由な思考など、本能以外に存在しないのだろうか──。



編集後記

ある日、職場の後輩に「『一九八四年』って読みました?」と突然聞かれたのです。

私「えーと、あの本が燃えるやつ?
後輩「いや……(困惑)。なんか三つの帝国に分かれて戦争する話で……」

その瞬間の私の連想はこうでした。

『一九八四年』/ジョージ・オーウェル著
↓(オマージュ)↓
『1Q84』/村上春樹著

『華氏451度』/レイ・ブラッドベリ著
↓(オマージュ)↓
『華氏911』/マイケル・ムーア監督

要するに「数字の入ったタイトルでオマージュされた英語のやつ」という雑な認識で『華氏451度』と混ざってしまったのです。なんてお粗末な記憶力。しかも読んだことなかったし。……というわけで、読みました。


読んだのは出産直前だったので(どんな精神状態や)、「ここに出てくる拷問より辛いものなどない!大丈夫!」と意気込んで(?)出産に臨みました。しかし実際に経験してみると「これ絶対あの拷問より痛い!」となりました。笑



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