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「その何かを、僕はいま、愛と定義する」

■ポール・オースター『ムーン・パレス』

僕は崖から飛び降りた。そして、最後の最後の瞬間に、何かの手がすっと伸びて、僕を空中でつかまえてくれた。その何かを、僕はいま、愛と定義する。
(P.79)


もう10年ほど前になるが、「今、どうしてもニューヨークに行かねばならない」という予感めいた強迫観念に覆われて、ニューヨーク一人旅をした。

その際に(当時シティホテルに泊まるお金はなかったので)連泊したゲストハウスの名前が「ムーン・パレス」だった。場所はマンハッタンではなく、クイーンズという地区。人気だったから今もあるかもしれない。

日本人が経営しており宿泊客も日本人ばかり。私にとってはじめての海外一人旅で、日本人がたくさんいる宿の安心感は大きかった。

(余談だけど、その後私は一人旅あるいはバックパックに慣れきって、ゲストハウスやドミトリーにたくさん泊まった。危ない場所もあった。歳を重ねた今、もう安宿には泊まれないなぁ──と考えると、人生における“経験”を一つ終えてしまった気がして少し悲しい。)

宿の名前はおそらく、この小説からとったのではないかと思う。なにしろ、小説のほうも舞台がニューヨークなのだ。

『ムーン・パレス』は、そのような名前の縁もあってずっと読みたかった一冊だ。

──どんな小説なの?

と聞かれ一言で言い表すとしたら、「明るい悲劇」あるいは「悲しい喜劇」という感じだろうか。

主人公の青年が〈偶然〉という運命のイタズラに左右され、翻弄され、図らずも自分の出自を知るに至る。というような大筋がある。しかし、そうした全体を貫くストーリーが与える「青春もの」っぽい印象は、あまり当てにならない。

どちらかといえば『ムーン・パレス』の真に楽しいのは、大筋よりも、中筋と小筋……という言葉があるかわからないのだが、部分を構成する物語の強さ(中筋)と、その語りの果てしない上手さ(小筋)にあったと思う。


まず、小筋。

文章が上手い。そして翻訳も上手い。

海外文学はいつも、不自然さを許容しながら読む感覚になってしまう。しかし本作にはその感覚がなく、母国語で書かれたものを読んでいるようだった。ユーモア、リズム感、言葉のセンスが素晴らしい。主人公の少しひねくれた思想を表現する場面も、やや難解な単語を並べながらもなぜか難しくなく、すっと頭に入ってくる。

誤解を恐れずにいえば、この文章は紛れもなく「村上春樹節」である。この軽妙でシニカルなリズム感は村上春樹にそっくりだ、と個人的には感じた。


そして、中筋。

先ほども書いたように、全体のストーリーはちょっとありえないくらい〈偶然〉という要素に基づいて進行していく。そんなに〈偶然〉はないでしょう。と、フィクションだと頭で理解しつつもツッコミたくなる。

大筋が完全なフィクションなら、中筋も超フィクションなのがこの『ムーン・パレス』の良さだ。登場する人物が一人一人ハチャメチャに個性的で、そのエピソードの一つ一つが独立して一作品になりそうなほど濃厚で面白い。

翻訳者の柴田氏も解説で書いているが、この作品は主題よりもむしろ、物語としての面白さを評価すべきなのかもしれない。全体を貫くテーマはたしかにあるが、それを深追いするよりも「ただただ面白い!」という率直な感想をもって勧めたくなる。

最近読んだ中では、太宰治『人間失格』が近い印象。太宰のほうがさらに暗くて救いようがないが、全体のテーマ(ざっくりいえば「生きる」ということ)を前面に出すのではなく、文章の上手さや濃密なエピソードでグイグイ読ませてくれる小説だ。

そのころの僕は、やたらに物語を捏造しては一人で悦に入っていたのだ。たとえ嘘であっても、自分の口から出てくるセンテンスの響きを楽しんでいたのだ。
(P.9)

冒頭の引用は、主人公と「キティ」という女の子の恋の場面だ。

恋愛の描写も私にとってはなかなかツボにはまった。文学においてはどちらかと言えば男性目線の恋愛語りが好きなのかもしれない。

彼女に恋をしないことなんて不可能だった。ただ単に彼女がそこにいるという事実に酔いしれないことなんて不可能だった。
(P.141)


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