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その憂いは、何処に?

■ヘミングウェイ『老人と海』


読み終わって、しばらく寝かせてしまった。

何を書けばいいかわからなかった。書きたいことがたくさんあって困る──というのではなく、カフカ『変身』の読後感に近い(それにしても『変身』はよく引き合いに出されるな、と他人事のように思う)。

読み終わった後、胸にこみあげてくる何かがあった。でもそれが何かわからなかった。少し寝かせれば「何か」の輪郭がつかめる気がしたが、残念ながら、まだ掴めていない。


一般的に『老人と海』は〈生の賛歌〉や〈不屈の精神〉といったテーマで語られることが多いのかなと思う。

しかし私は、この物語がシンプルに「ある老人の闘い」を描いたものだとは思えなかった。ちょっと俗っぽい言い方になってしまうが、「これほどまでに愛される文学が単純にポジティブな物語であるはずはない」というイメージでもある。

そこからゆっくり考えてみて、辿り着いたのは「文学性とは何か?」という問いだった。


結論から言うと、いま私が感じている「文学性」は「憂い」の中にある。

「憂い」には多くの種類があるだろう。悲しみ、苦しみ、怒り、不条理、ある種の愛や友情──。

そういった「憂い」を含まないものは「文学」(≒純文学)と呼べないのではないか。あくまで個人的な考えだけれど、この価値観が自分の中に深く根ざしていることに気づいた。

私が娯楽小説ではなく文学作品(と一般的に評されるもの)を読書の対象として選びつづける理由は、ひとえに「憂い」を欲しているからなのだと思った。

私は、文学が必ずもっている「憂い」の新しい姿に出会いたい。未だ体験したことのない形の「憂い」に出会い、傷を負いたい。……という、ちょっとマゾヒスティックな嗜好がある。


だから、『老人と海』にも「憂い」があると確信しているし、実際にそのような何者かを最後に見出した感覚があった。なのに、掴んだと思った「憂い」はすぐさま見えなくなってしまった。

──この文学は本当に〈生の賛歌〉なのだろうか?

──ヘミングウェイが伝えたかったのは〈不屈の精神〉なのだろうか?

あるいは私の深読みか、あるいは私の浅すぎる感性か。わからないけれど、どうにもモヤモヤする。ネットのレビューで答え合わせをするのはシャクなのだ。文学に、芸術に、正解などないのだから。

自分の心で掴みきれないものが隠された文学は(『変身』もそうだけど)、今後の人生の課題図書としてとっておくべきなのかもしれない。


私にはまだこの本が読めない。悲しいことなのか、嬉しいことなのか。


夜空はすぐに、遠くできらめく友人たちで賑やかになるだろう。
「やつもおれの友だちだからな」老人は声に出した。「あれほどの魚は見たことも聞いたこともない。なのに、やつを殺さにゃならん。だが、あの星たちは、嬉しいことに、殺さなくていいのだ」(P.79)


──しかし、それはそれとして、

『老人と海』は間違いなく〈闘い〉の物語である。

ということも、今にしてやっと、芯から理解できた。

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