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「お前は俺より不幸な人間だ。然し性格的にいうと、遥かに幸福な人間だと思う」

■志賀直哉『暗夜行路』

「──運命的にというのか、境遇的にというのか知らないが、そう云う意味ではお前は俺より不幸な人間だ。然し性格的にいうと、遥かに幸福な人間だと思う。しかも、何方が、より幸福かといえば勿論性格的に幸福な方が本統の幸福だと思ったよ」

P.207

──

先日、広島県尾道市を弾丸で訪れた。その際に泊まったホテルのすぐそばに志賀直哉の旧居があった。『暗夜行路』が執筆された(もしくは構想が練られた)場所だということで、この本を手にとってみた。

志賀直哉は寡作な作家で、長編はこの作品しかない。私は以前、短編集『小僧の神様・城の崎にて』を読んだことがある。死んだ父が志賀直哉を好きだったらしい、と死後に知ったからであった。けれどもそのときは、正直あまり面白いと思わなかった。

しかし今回の『暗夜行路』──いかにも重そうなタイトルだし長いし読み進めるのが困難ではないかと不安だったが、予想に反してとても面白く、惹き込まれるように一気に読んでしまった。

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私は主人公の「謙作」に強く共感した。この人物は志賀直哉自身を投影しているようで、「あとがき」には以下のように書かれている。

モデルに就いて。主人公謙作は大体作者自身。自分がそういう場合にはそう行動するだろう、或はそう行動したいと思うだろう、或は実際そう行動した、というような事の集成と云っていい。

P.519

「謙作に強く共感した」と言うと、読んだことのある人なら「えっ」と思うかもしれない。まず性別が違う。それに彼は境遇的に不幸の連続で、出生の事情にも結婚後の生活にも、小さからぬ闇を抱えた。

私は決してそんな人生ではないから、ほんとうは共感などできっこない。と、理解しつつ、憑依するように彼の人柄に入り込めたのは、志賀直哉本人が言うように「自分がそういう場合にはそう行動するだろう、或はそう行動したいと思うだろう、或は実際そう行動した」という感覚があったからだ。

もし私がこの生い立ちであったら──
もし私の子がこうなってしまったら──
もし私が結婚後にこのような事件に遭遇したら──
そしてもし私がそれらの場面で男であったら──

そのとき私も、謙作のように物を見、考え、そして行動するだろう。

自分の話ばかりになってしまうけれど、死んだ父と私は性格的によく似ていた。だから父もおそらく謙作、というか志賀直哉という人物に共感したのではないかと想像している。

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新潮文庫の裏表紙には「苛酷な運命に直面し、時には自暴自棄に押し流されそうになりながらも、強い意志力で幸福をとらえようとする謙作の姿を描く」と書かれている。現代文の模範解答のような上手い要約だが、とはいえこんなに短くまとめてしまっては謙作の「らしさ」が9割ほど削ぎ落とされているように思う。

たしかに謙作は強い意志力で幸福をとらえようとするのだが、単なる「前向き」とは少し違う。

彼は、不幸から目を逸らさず真っ向から対峙する。体力のいる立ち向かい方だ。そして、決してその原因を決して他人(家族ら)に振り向けない。もちろん他人に腹を立てることはあるし「なんでだよ」とイライラしたりするのだが、結局は「もう済んだことだから仕方ない」と、ややあっけらかんと片づける。忘れてしまうことはできない、けれども自分の未来、ひいては世界全体の未来のために自分はきっと何かできるはずだと常に考えるから、不幸にいつまでも拘泥せず前に進めるのだろう(と私は感じた)。

そうはいっても、時々発作的に鬱状態に陥ったり、言葉で誰かを責めてしまったり、あげく手を上げてしまったりする。そんなところもよくわかる(同じ状況ならきっとそうなるなぁという意味で)。

彼のそういう矛盾する性格を根底で支える明るさが気持ちよい。だからこの本は過度に暗くならず読める。

太宰治『人間失格』と全体の方向性は似ている。私は『人間失格』も好きだったが、比べてみると太宰にはまったくといっていいほど共感できない。正反対とすら思う。太宰治が抱えていた闇は──私の目から見ると──志賀直哉の闇より相当深かったように感じられる。

──

以下の記事でこんなことを書いた。

私は、やっぱり純文学が好きだ。心から大好きだ。

なぜなら私は、この世界そのものが好きで、この世界そのものに対して尽きない好奇心を抱いているからだ。この世界を見る「目」を一つでも多く得たい、小さな本を通して、新しい「目」を得たい。それは他では得がたい体験なのだ。映画でも漫画でも旅行をしても恋をしてもみつからないような誰かの叫びがそこにはあるんだ。

だから、純文学を愛してしまうのだ。

『暗夜行路』を読んではじめて、純文学の「目」が自分自身の「目」と重なるという感覚を知った。


──或る処で諦める事で平安を得たくない。諦めず、捨てず、何時までも追求し、その上で本統の平安と満足を得たい。本統に不死の仕事を仕た人には死はない。今の自分は芸術の天才に就いてそう思うばかりでなく、科学の天才に就いてもそう考える。キューリー夫妻の事はよく知らないが、然し彼等が人類の間に落して行ったものの確かさは彼等にどう云う運命が来ようとも決して動揺する事のない平安と満足を与えているに相違ない。自分はそういう平安と満足とを望む。嘗て人の見た事のないものを見、嘗て人の聴いた事のない音を聴き、嘗て人の感じた事のないものを感ずる。

P.102



編集後記

タイトル画像の背景は、尾道で宿泊した宿の窓から撮影したものです。志賀直哉旧居はこの宿の裏手にあり(訪れることはできなかったけれど)、ほとんど同じ風景を見ていたのではないかと思います。

尾道は、本編でも書かれているように、とても良い街でした。謙作は残念ながら尾道であまりよい時間を過ごせなかったようだけれど、たぶん作者の志賀直哉は気に入っているのではないかと勝手に感じました。

たまたま寄った『パン屋航路』という人気のパン屋さん。「あれ?もしやもじってる?」と読了後に気づきました(遅い)。美味しかったです。

あと、尾道には好みの雰囲気の女性が多かったです。笑


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