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「だから僕はこんなに場違いな気持で、孤独のような気持がしたりする」

■サン=テグジュペリ『夜間飛行』

「今夜は、二台も自分の飛行機が飛んでいるのだから、僕にはあの空の全体に責任があるのだ。あの星は、この群衆の中に僕をたずねる信号だ、星が僕を見つけたのだ、だから僕はこんなに場違いな気持で、孤独のような気持がしたりする」

今日はスーパームーンと皆既月食が重なる日らしい、この二つが重なるのはとてもレアなんだって──という話で昼食時に盛り上がり、夜。待ち望んで東京の空を見上げてみたけれど、生憎の曇り空で月自体が見えなかった。

でも最寄り駅に着いてふと空を見上げてみると、月が見えていた。皆既月食の時刻は過ぎてしまったから、月蝕が元に戻るタイミング(なんと表現すればいいのかな?)だったのだと思う。月蝕ではなかったけれど月が見れたことは嬉しい。

私は、満月の日を手帳に黄色く記している。その節目を毎月楽しみにしているのだ。

それにしても。今日空を見上げて感じたのは、やっぱり東京の空は明るい……ということだった。そこに「闇」と呼べるような深さは皆無だ。空模様に関わらず星はほとんど見えない。向こう側を予感させる「怖さ」のようなものを、東京の空は(たぶん日本が存続する限りにおいて永遠に)失ってしまった。


闇を切り拓くという欲望

この『夜間飛行』が執筆された当時は、まだ世界大戦の時代だった。「夜間飛行」が主題になってしまうような時代、つまり、まだ「夜に飛ぶこと」が怖いという時代だった。

その空にあった闇は今とは比べものにならないくらい、暗く、深かったのだろう。

飛んでいるのは旅客機ではなく郵便機。郵便物を運ぶ飛行機である。「郵便機が夜に飛べば、少しでも有効に時間を使える!」という確固とした信念をもって、主人公のリヴィエールは指揮官としての役割をこなす。

「危険を冒してまで郵便物を早く届けることって、そんなに大事なの?」

と、現代人としてはいまひとつピンとこなかったけれど、当時は、情報の長距離伝達手段として最も速いものが郵便だった。だからその速度を競うことには軍事的な意味合いもあったかもしれない。暗号文を運んだりしていたのかもしれない。

でもおそらく、実用性以上の欲望が「夜間飛行」という挑戦のうちにあったのだろうな。と読んでいて感じた。今で言えば「宇宙飛行」と同じことだ。遠く、見えない場所へ。それ自体が理由のない目的、理由のない欲望だったのではないだろうか。

結果としてその欲望が少なからぬ人間を犠牲にすることは避けられない。宇宙飛行だって、悲しい失敗の数々があった上で、今がある。夜間飛行にはもっともっと多くの失敗があったのだと想像する。


未来への舵取り

私はいまこの物語を──彼らの「闇を切り拓く」という使命感を、一世紀進んだ視点で見ている。

彼らはとても純粋に、脇目もふらずに自らの目標に向かって突き進んでいるように見える。事実、人類は突き進んできた。だからこそ『夜間飛行』が「人間賛歌」的ストーリーと称されることは理解できる。

でも一方で、そういった使命感が連れてきた「今」という時代を実際に生きる自分にとって、この空はあまりにも明るく、月も星も霞んでしまっている。

本当に彼らの使命感は正しかったのだろうか?彼らにはきっとこの空の明るさは予想できなかっただろうし、この空が闇を失うことの哀しさも予想できなかっただろう。

だとすれば──私たちがいま突き進んでいる先は、さらに一世紀進んだ誰かの視点で見たときに、同じように疑問を抱かれるのかもしれない。私たちの進む方向は、一世紀前から全く方向転換をされていないのだから。

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