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では、私たちのモラルの正体はなんなのだろう

■梶井厚志『戦略的思考の技術』


自分にはあまりない(と思う)「戦略的思考」とやらに興味をもち、読んでみた。

「ゲーム理論を実践する」とサブタイトルについているが、ゲーム理論の面白さが感じられるのは第一章のみ。第一章はいくつかの例を用いてゲーム理論に基づく戦略的思考が説明されており、なかなか頭をつかう。けれど、第二章以降はあまり難しくなく、誰もが日常的に経験していることを経済学用語で説明されているだけ、という感じ。

よって、ゲーム理論を本気で実践したい人には若干物足りない内容だと思う。あくまでさわりしか書かれていないので、この一冊でゲーム理論的思考は身につかないだろう。

戦略的思考とは無縁に生きてきた!という人には新鮮だと思うのでおすすめです。

特に私が興味を持ったのは「モラル・ハザード」。

言葉をそのまま受け止めると「倫理観の欠如による危機」という印象だが、そういう話ではない。

モラル・ハザードはたとえば、自動車保険に加入した人が、油断して、安全運転をしなくなる。あるいは、失業保険を受給している人が、お金がもらえるから、再就職する意欲がわかなくなる。というような状態だ。

しかしこれは、倫理観(モラル)が欠如しているからではないという。

モラル・ハザードは文字どおりのモラルの問題なのではなく、観測できないことに対してインセンティブを与えることがむずかしいというインセンティブの問題と、観測できない行動へのコミットメントは相手に信頼されないというコミットメントの問題が絡み合った問題なのである。(P.201)

……余談だけれど、この本はやたらとカタカナ語が出てくる。経済学がアメリカで発達したから(英語なら一応理解できるから)なのか、時代的に新しいから(逐一日本語に変換する時代ではなかったから)なのか?いずれにしても、だんだんルー大柴なんじゃないかという気分になり、あ、業界の人がカタカナ使うのってこういうわけなのね。と思った。

上の引用もカタカナ多すぎてよくわからないけれど、要するに、こういうことだ。

例えば契約を結んだとしても、成果が目に見えない場合は、評価しようがないから、どうせやったって伝わらない=評価されない。だからやる気を失う。

やる気を失った状態(さきの例なら運転手が雑な運転をしたり、失業者が就職意欲を失うこと)は、一見して「モラル」が欠如しているように見えるが、決してその人の倫理観の問題ではなく、そもそもの仕組みが悪いのだ。ということ。

以下の例もわかりやすい。

公共機関の仕事に無駄が多いのも、モラル・ハザードのひとつである。これは、公務員には無駄を省いて節約するというインセンティブが弱いからであるが、この問題の源泉は公務員の仕事の成果を評価する作業も、さらにはその成果に報いて報酬を与えるという仕組みもないからであって、断じて公務員のモラルに問題を帰着してはならない。(P.210)

「公務員にはモラル・ハザードが多い」なんて言ってしまうと「公務員はモラルに欠けるのか!」と勘違いしてしまいそうだが、そうじゃない。頑張ってもそれが評価される体系ができていなければ、頑張れない。それは公務員が悪いのではなく、システムが悪い。

この話がとても好きだった。好きというと変だが、納得した。

経済学においてはこのように、人間の「モラル」なんてものは、ある意味まったく信用されない。

「自動車保険に入ったって安全運転するのは当たり前」とか、「失業保険を受給したってきちんと仕事を探すのは当たり前」とか、「公務員だって自主的に質の良い仕事をするのは当たり前」とかいうのはいずれも、「人間はモラルをもって行動するべきだ」と多くの人が考えているからだと思う。

でもそれは、実は難しい。どんなにモラルがあっても打ち勝てない欲望があるし、逆に、どんなにモラルがあっても維持できない正義がある。

人間の行動のすべての原動力を「インセンティブ」(利益があること/不利益がないこと)に帰結させて、インセンティブの有無でしか人間は動かないとする。非常にドライな理論だが、そう捉えなければ解決できない物事は多い。


たしか大前研一さんが言っていたけれど、人が変わるための方法は3つしかない。生活リズムを変える、付き合う人を変える、住む場所を変える。と。

私は自分を含めて、人間というものを低く見積もっている。というか、人間の意志の力をあまり(ほとんど)信用していない。だから、環境要因でしか変われないという上記の説や、「モラル・ハザードはモラルではなくシステムの問題だ」という理論に、共感する。

社会経済問題を倫理とか習慣の問題と理解し、そこにとどまるのは危険な思想である。表層的な正義感や倫理観が歴史上のさまざまな差別や誤りを正当化してきたことを忘れてはならない。(P.198)

一方で、この本を読んでいると、「じゃあ人間の道徳心はまったく価値がないのか?ただ純粋に利益とか関係なく良いことをしたいと思う気持ちは、嘘なのか?」という疑問もまた、頭から離れない。

もし全てがインセンティブに帰結するならば(それは金銭だけでなく愛情や快楽という形もとる)、私たちはインセンティブぬきに行動をしえないのだろうか?本当に?

アリストテレスは「有用性や快楽ではなく相手の善を願うことが本当の愛だ」と言っていたけれど、「相手の善」は私にとってのインセンティブなんだろうか。インセンティブがあるから善を願うんだろうか……

「経済学ではそこまで扱ってないよ」と言われてしまうかもしれないけれど、じゃあどこまでが経済学の、戦略的思考の守備範囲なのか。最初のほうに、私たちのいるこの環境はすべからく戦略的環境だ、というようなことが書かれている。自分の行動が利害関係ぬきに行われるということは、まずないのだと。

インセンティブをベースにし、シグナリングやらコミットメントやらで色々と説明する経済学はすごくわかりやすくて好きだけど、一方で、どうしても掬いきれない物事もある気がしている。

そもそも「戦略的」が良しとされるのはなぜか?何を目指すのが「戦略的」なのか?と考えた時にそれは、一般的に良いことは良いから、としか言えないのではないか。

お金を稼ぐのも、人にモテるのも、たしかに良いことだ。しかし、薄給な職をあえて選んでいたり、人にモテたいと思わなかったら、その人たちは「戦略的に生きてない」のかな。ま、普通はそう言われるだろうけれど、じゃあ「戦略的に生きてない」ことは、悪いことなのかな?戦略的って、どうして「良い」んだろう?戦略的じゃなくても幸せな人はいるよね?


こんな風に考えだすと、経済学と哲学はあまり仲良しになれないのかな。などと思う。もっとじっくり考えなければいけないな。

(戦略的思考が身についたレビューとは言えない気がする。)

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