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「愛のために乾杯だ。真実の愛のために」|あるいはコンテンポラリーダンスのように

■レイモンド・カーヴァー『愛について語るときに我々の語ること』

「さあ、みんなで乾杯しようぜ」と彼は言った。「乾杯の音頭を取らせてくれ。愛のために乾杯だ。真実の愛のために」(P.249)


ポール・オースターに続いてレイモンド・カーヴァーを選んだのにはわけがある。

以前読んだ、村上春樹と柴田元幸の対談『翻訳夜話』の中で(以下の記事)、二人がオースターとカーヴァーの短編を「翻訳し合う」という面白い試みをしていた。村上氏はカーヴァー、柴田氏はオースターにそれぞれ傾倒しているという話だった。

だから私にとっての“初カーヴァー”は、厳密にはその『翻訳夜話』に掲載された短編だった。しかしきちんと著作として読んだのはこの『愛について語るときに我々の語ること』が初めてだ。

カーヴァーの作風は非常に個性的である。例えるならそれは、コンテンポラリーダンスのような文学だ。

ダンスというジャンルにはいくつか小分類がある。

クラシックバレエ──例えば有名な「白鳥の湖」などには、はっきりしたストーリーがある。盛り上がりがあり、結末がある。コントラストと流れがある。

また一方でストリートダンスには、わかりやすいカッコ良さがあり、高揚感があり、観るものに与える刺激がある。

では、コンテンポラリーダンスはどうだろうか?コンテンポラリーダンスは少し難解だ。ストーリーがなかったり、単純にカッコいいとは言い難かったりする。そもそも、彼ら(ダンサー)はわかりやすいストーリーや直接的なカッコよさ“ではない”ものを表現しようとしているのだから、当然ともいえる。

コンテンポラリーダンスの目指すところは(ダンスの専門家ではないので個人的な見解になってしまうことをお許しいただきたい)、これまでにクラシックや大衆向けのダンスが表現し得なかったものを、肉体の動きという究極に削ぎ落とされた形で表現することにある。

そこに装飾はいらないし、過剰なフィクション性も必要ない。


カーヴァーの作品もこれと同じだと私は感じた。

彼は、日常の一場面を切り取ろうとする。例えば「ある日突然訪ねてきた見知らぬセールスマン」との対話のなかで、徐々に浮かび上がってくる主人公の背景や感情を、極力削ぎ落とした表現手法で描こうとする。しかも最後は突然ぷつんと切られてしまう。

読み終わると、「で、だから何?」となるかもしれない。私は、何度か──いや正直なところ毎回のように「で、だから何?」と感じた。

でも、「で、だから何?」となるからといって「つまらない」わけではない。

戸惑いの原因は恐らく、私自身が“クラシックバレエ”(=古典文学)や“ストリートダンス”(=大衆文学)を無意識のうちに期待してしまっていたからだと思う。

次第にダンスはむしろ面白くなり、刺激的にすらなった。

「キスして」と彼女は言った。
「もう起きようぜ」と彼は言った。
「キスしてよ」と彼女は言った。
 彼女は目を閉じて、彼に抱きついた。
(P.16)

カーヴァーの文学を読んであらためて感じたことがある。

このような、ちょっと難しいと感じがちな芸術──わかりやすく感動したりハラハラドキドキできない芸術──は、鑑賞者に「戸惑い」を与える。

先ほど書いたようにまずは「思っていた(慣れ親しんだ)ものと違う」という戸惑いがやってくる。続く戸惑いはおそらく「どう解釈していいかわからない」だと思う。

以前カフカ『変身』を読んだときに、この種の戸惑いを感じた。

──きっと作者は何かの意図を込めたに違いない。意図がないはずがない。でも、意図がわからない……

という戸惑い。すると、感想を書くのがはばかられたりする(間違ってると恥ずかしいから)。

でも、私は思う。

たしかにカフカもカーヴァーも、何かしらの意図があって作品を書いているに違いない。しかし読者は必ずしもそれを追う必要はない、と。


現代芸術は一般的に難しい。中には文字通りゴミを並べた作品なども存在する。音楽はやや不快な和音を並べたりする。なんだこれ、わけわかんないな。と思うものが多くある。

しかし、選択権は享受者にあり、良いものは良い/悪いものは悪い、それ以上でも以下でもないのだから、気負う必要はないと私は思っている

「難しい」からつまり「勉強しなければいけない」とか「理解するのに努力や教養を要する」と思ってしまうと、嫌になってしまうだろう。

もちろん理解を深めることで新たなステージに辿り着ければ、それはそれで別の楽しみ方ができてより良いのは否定できない。

でも実のところ、芸術家の中には、大衆の感情なんてお構いなし。という人が多くいる(悪く言っているわけではない)。彼らは、彼らの世界内で通じる独自の言語で語り合っており、その言語は素人には(あるいは本人以外には)なかなか理解できなかったりする。

不思議なことに、大衆に理解されなくても、芸術という世界を推し進めることはできてしまう。むしろ大衆に理解されることを前提につくっていては、彼らの世界は進歩しない

だから一般大衆の私は、堂々と、「理解する」ことよりも「自分が美しいと感じるかどうか」「自分が純粋に楽しめるかどうか」という尺度を大切にしたいと考えている。

その上でいずれ何かを理解できる瞬間が訪れればいい。どっちにしろその理解が正しいかどうかを確かめるすべはないのだ。

……というわけでカーヴァーは、正直に言ってちょっとわかりづらい。

独断と偏見で似ている作家を挙げると、上述のカフカや志賀直哉が似ているように感じた。でも彼らよりもっとシンプルで、シニカルで、グロテスクである。

こんなことばかり書いてるとまったく良さが伝わらない気がしてきたので方向転換しよう笑。村上春樹氏の解説からの引用だ。

品の良い線描を思わせるような、実に簡潔にして要をえたカーヴァーの風景画家としての才能は、そのストーリー・テリングの才とともに高く評価されていいのではないかと思う。本当に言葉の少ないシンプルな描写なのだが、眼前にその風景がすっと浮かんでくるのだ。(P.298)

カーヴァーの短編の文字数は少ない。難しい言葉は一切使われない。そういう意味で“とっついてみる”ことは難しくない。

とっつきはじめは物語の奇妙さや突き放される感じに戸惑うが、実はこの引用に書かれているように、描写が非常にシンプルで上手いという特徴があるので、無理なく読まされていることに気づく。

オースター『ムーン・パレス』で感じた文章の上手さとカーヴァーの文章力はまったく異なる。

面白いのは、村上春樹がオースターに共感せずカーヴァーを心底敬愛していることだ。だって、一読者の私にしてみれば、彼の紡ぐ言葉は限りなくオースターに似ているのだから。

スルメのようにじわじわと癖になるカーヴァー。タイトルにもなっている「愛について語るときに我々の語ること」と冒頭の「ダンスしないか?」が最も好きだった。最高傑作とされる『大聖堂』もぜひ読みたいと思っている。

君たちダンスすればいいのに、と言ってみようかなと男は思った。そしてそう口に出した。「君たちダンスすればいいのに」(P.21)


それから、

この人は若いころに相当じっくりとヘミングウェイを読み込んだのではないかという気もする。(P.298)

と村上氏が解説に書いていたので、ヘミングウェイが気になっている。実はまったく記憶になく(記憶力が悪すぎて読んだか読んでないかすらも覚えていない)、読みたいなぁと思っていたところだった。


読みたい本はいったいいつ尽きるのだろう?読みたい読みたいと急く感情と、でも「『読みたい』と思わなくなる日が怖い」という感情が、せめぎ合っている。


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