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彼女は社会性へと向かう

娘が2歳の誕生日を迎えた。

0歳から1歳までと同じくらい、1歳から2歳に至る変化もまた凄まじかった。「日に日に」という言葉がこんなにしっくりくる期間もないだろう。お天気ですらここまで変化しないよね、という感覚だ。




私が今の彼女に見ている明らかな変調が一つある。
娘は最近、明らかに人の顔色を伺うようになったのだ。

少し前までの娘は、
・愉快な時に笑い、
・不快な時に泣く(怒る)
というシンプルな感情表現しかできなかった。

しかし今の娘は、
・自分の動きによって両親が喜んでいる時に、とても嬉しそうにし、
・逆に自分の動きが両親を怒らせたり悲しませている時は、バツが悪そうにしたり、ふてくされたりする
ようになった。

・・・

一年前にこんなことを書いた。

私の素直な気持ちは「子どもの成長を期待する」というよりむしろ、「子どもが成長して社会性を身につけてしまうことが悲しい」だった。

衝動的で、合理的で、人の顔色なんて伺わず、だけれど嬉しい時は大声で笑い、自分の喜びばかりを追求している子どもは、手がかかるけれどとても愛しい。

私は彼女の個としての合理性を極力尊重したいと思う。これから成長しどんどん社会性を見につけていくのだろうけれど、彼女がこんなにも自由に生きていたという事実を決して忘れたくない。

「彼女の合理」

予感が的中している。
気づかぬうちに、彼女は滑らかに社会性を身につけ始めた。そして私は、その事実に対する悲しみをやはり抱いている。

・・・

誕生日当日のこと。作ったオムライスが、とても不味かった。

味に寛容な夫も珍しく「美味しい」と言えないほどだった。平日なので慌ただしくしていて、ケチャップライスを炊飯器で炊こうと適当にぶち込んだせいで、べちゃべちゃになってしまったのだ。味を誤魔化すべくケチャップを大量に追加したもののしょっぱくなるだけで全くリカバーできず、私はひどく落ち込んでしまった。

でも娘は、そんなオムライスを一口食べて「おいしっ」と言った。さらに、卵に描いた顔について「おめめが〜〜〜(聞き取れない)」と言いながら、2/3ぐらい食べてくれた。
(ご飯を半分ぐらい残すのが通常営業だ)

「娘はもしかして、私の顔色を伺って『おいしい』と言っているのではないか?」

と疑心暗鬼になってしまった。

まったく自分は何なんだろう、とますます落ち込んだ。料理が下手だわ、落ち込みを隠せないわ、疑心暗鬼になるわ……よりによって子どもの誕生日なのにテンション低くなってまったくどうしようもない人間だ。と、自分の何もかもが嫌になってしまった。

(あぁ、こういう時に「え、おいしいの?よかった〜♡」と言える人間になりたい!)


──かように未熟な母親であるから、彼女はそれを補うようにしっかりした社会性を身につけてしまうのではないか?と、私は不安になっている。社会性が身についていること自体は喜ばしいのだろうけれど、どちらかといえば自由奔放に、人の顔色を伺わずに育ってほしい。そんな願いがある。夫もなぜだか同様の発言をたびたびしている。

これからの一年間で彼女はどう成長するのだろう?

私はもっとしっかりしなければ、と反省しているところだ。




子育てはキャバクラに似ている、と以前書いた。

子育てはまた、ディズニーランドのようなものかもしれない。

・・・

ディズニーランドの楽しさは、行ってみなければわからない。その場所に入ってどっぷり世界に浸るととても楽しいのだが、どんなに口コミを聞いても体感として理解することはできない。体感としての理解がほぼ全てであるにも関わらず。

私が幼かった頃、ディズニーランドは憧れの場所だった。一度は行って当たり前。いつ行くの?もう行った?……そう競うように語る対象だった。だから私もディズニーランドに行きたかった。具体的に知らなくても、なんとなく行きたい、いや、行かなければならない!と感じていた。

しかし今はどうだろう?若い子の常識は知らないが、ディズニーランドがそこまで「外せない」場所ではないような気がする。他にも楽しい娯楽が山ほどある。「ディズニー行ったことないの?え、マジ?」と言われることもあまりないだろう。

「行ってみないと楽しさがわからない」場所に対して「行きたい」と思わせるものは、周囲の常識──もっと言えば、軽い圧力のようなものなんじゃないかと思う。

理屈だけで考えてしまうと、行く必要なんてないのかもしれない。

・・・

私自身、実際に経験してみて、子どもの可愛さを体感として理解できた。でも、産んで育てる前には全くと言っていいほど理解できなかった。

子どもの可愛さは、先んじて理解ができる性質のものではない。だからこそ子孫を残すという行動が(本来は)快楽とセットになっているのだなと、今さらながら深く頷いてしまうのだった。




子どもが生後2ヶ月の頃に自分が書いた言葉を、読み返した。

──私は、子育てとは、「子どもが成長する横で自分が我慢をする日々」を意味すると思っていた。でも実は、「子どもが成長する横で自分も成長する日々」なのかもしれない。いや、そうでありたい。

そんな日々が、すっかり手のひらを返したように、楽しい。

「子育てがもたらしてくれる時間」

本当にその通りだなと、これまた深く頷いた。

この2年間で、子どもと一緒に自分も成長してきた。これからもそうありたい。


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