子どもを産んで良かったの?
子どもが生まれてからもう2年が経った。
出産前に、このnoteで不安な想いを綴っていた。読み返さなくても思い出せるほどはっきりと覚えているのは、主な不安が「子どもを愛せるかどうか」だったこと。
今思えば、馬鹿げた不安だった。断言してもよいが、そんなことで悩むのはただただ時間の無駄だった。
それ以外の不安は「お金」「仕事」「自分の時間」がメインだったと思う。これらに関しては、正直なところ、予想通りと言わざるをえない。
・・・
世間では出生率最低記録更新が騒がれ、少子化対策が連日のようにニュースで取り上げられる。
私は、もともとすごく子どもがほしかったわけではない。むしろ不安ばかりだった。だからこそ、この2年間ずっと「実際に子育てしてみてどうだったの?」と自分に問いかけてきた。誰かに聞かれたら、なんて答えようか。どうすれば日本の少子化は止められるのだろうか。求められるでもなく勝手に考えていた。
今この瞬間の考えを、ここに記しておこうと思う。
時々想像する。もし今、娘と私が誰かに暴力を振るわれそうになったり、どちらかが命を落とさねばならないような状況に陥ったとしたら、私は1ミリも迷わず自分の命を差し出すだろう。
娘が生まれた瞬間から、私にとって自分の命は「二番目」になった。それ以前はどんなに誰かを愛したつもりでも自分以上に愛することなどできなかったが、子どもは違った。この感覚は理屈ではない。
こんなにも大切な存在を養う人生が、これまでと同じであるはずがない。
子育てに関する問題は多方面にわたるが、結局これが全てだと私は感じている。
・・・
お金、時間、仕事。出産を機に生活のすべてがガラっと変わるのは事実だ。というよりむしろ、変わらないはずがない。「自分の命よりも大切なもの」との暮らしが始まるのに、生活が変わらないほうがおかしい。
ただ……
「お金も、時間も、仕事も犠牲になるけれど、それでも子どもが可愛くて大切だから我慢できるよ」
──と言いたいわけでは決してないのだ。
事実を単純に述べればそうなるのだけれど、私自身は、その2つ(お金/時間/仕事 と、子ども)を天秤にかけていない。
・・・
例えば、誰か(異性でも、同性でも)をとても愛したとする。一生を共にしたいような人がいて、その人も自分を愛してくれる。そして結婚したりパートナーになったりする。それはとても幸せな出来事だろう。
考えてみれば「愛する誰かと共に過ごす」ことは自分にとって強い制約になりかねない。お金に関しても時間に関しても仕事に関しても、自由が制限される。けれども「制約が生まれるから愛する人と一緒に過ごすのは嫌だ」と言う人は少ない。
愛していれば、多少不便なことがあっても気にならない。むしろ、一人ではなく二人で暮らすことが当然だと思っていれば、不便とすら感じない。一人で生きるのも楽しいが、多少不都合でも一緒に過ごしたい人が見つかるのならば、それ自体とても幸せなことだ。
──私は、この順序が自然なのだと思う。「愛しているから、大丈夫」。「愛」が先行する場合に「制約」は当然付帯してくるものであり、天秤にかける対象ですらない。
・・・
けれども、子どもに関しては、出産前の私自身がそうだったように「愛」が先行しえない。顔も見えない、声も聞こえない、そんな相手を愛せる人は実はそう多くないだろうと今は考えている。
エコー写真を見て「かわいい」と思えるか?──私は完全に「ノー」だった。エコー写真を見る度に「まだ生きていた、よかった」と安心したものの、特別な感情はほとんど沸かなかった。
そんな風に「愛」がない状態で「制約」が明らかであれば、どうなるだろう?その「制約」が、配偶者やパートナーとの暮らしよりも明らかに強ければ、不安になるに決まっている。
・・・
「こんなにも大切な存在を養う人生が、これまでと同じであるはずがない。」
自分の子どもが目の前に登場してはじめてこの感覚が体内に芽生えた。マウントをとりたいわけではない。子どもがいるから経験値があるなどと言いたいわけではない。子どもへの愛やそれゆえの覚悟は言葉で伝えられる類のものではなくて、だから、こうやって書くことがそもそも無意味だし、無意味だからどう伝えればいいか2年間悩んだ。
悩んだけれど結局はこの程度しか書けない。
「で、結局子どもを産んで良かったの?悪かったの?」
もしそう聞かれたら?
迷いなく「良かった」と答えるだろう。
「自分の生活は犠牲になったの?」
これも迷いなく「なった」と答えるだろう。
でも、天秤にかけてはいない。子どものために諦めているというわけではない。子どもがいる人生以外の選択肢は今の私の中にはなくて、だからそもそも、天秤になんてかけられないのだ。
ああ、どうしてこんなに簡単なことを、うまく伝えられないのだろう。
事実だけ書くとしたら──
今私は苦労しながらも楽しく充実した日々を過ごしている。他人と比較してどうか、とか、子どもがいないパラレルワールドとどちらを選ぶか、などと聞かれると、正直わからない。他人の暮らしを見て羨ましく思うことだってあるし、子どもがいなかった頃の自分に憧れたりもする。
けれども相対的ではなく絶対的に、娘と出会えた人生以外の人生など私にはありえない。「幸せ」かどうかはわからないが、それぐらい大切な存在と今、過ごしている。それが事実だ。
彼女の存在はもはや私(たち)にとって当然だし、彼女ありきでどのように楽しく人生を過ごそうかと悩んでいる。一方で、その生命や健康を「当然」と思わずに過ごさなければという覚悟は確かに重く、だから決して楽しいだけの人生にはならない。それもまた事実だ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?