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「生きたまま死ぬ」という止まない妄想

■エドガー・アラン・ポオ『ポオ小説全集 1』


ポオ小説全集は、全四巻。まとめて買って3巻と4巻を先に読み(下の記事)、しばらく間があいてしまった。


今回読んだ1巻はポオの作品のうち最初期のものを集めていることになる。結果としてあまり有名でない作品が多い。もっとも有名なのは『アッシャー家の崩壊』だろうか。

3、4巻に比べると、物語のキレやまとまりが少し弱めという印象だったが、相変わらず「よくこんな設定思いつくよなぁ」と感心する。

特に忘れられないのが『ハンス・プファルの無類の冒険』。本書に掲載されている中で最も長く、短編よりは中編に近い。ざっくりと概要を書くと、男が気球に乗って月に行こうとする話。とシンプルなのだけれど、月に人類が到達するなんて夢のまた夢だったような時代(1800年代)に描かれた描写が妙〜に鬼気迫っていて、リアルな描写とはまた別のゾクゾク感がある。途中で呼吸ができなくなったり死にそうになりながらも、宇宙空間に出てしまう──相当の恐怖や孤独があるだろうに、淡々と、変に前向きで切実な主人公がなんだか怖い。笑

他には『メルツェルの将棋差し』も印象的だった。事件が起きるわけではないのだが、全体の流れがロジカルで推理小説の萌芽を感じさせる(ちなみに推理小説の元祖とされる『モルグ街の殺人』は3巻に収録されている)。

・・・

『メルツェルの将棋差し』で特に感じたことだが、やっぱり江戸川乱歩とよく似ている。いや、江戸川乱歩がポオに寄せている、が正しいのだろう。

しかし今回私が感じたのは、乱歩は商業的に物語を書いているけれど、ポオは自分の衝動として書いていたかもしれない、ということだ。

(他の巻も含めて)解説を読むと、ポオも商業主義的に読者への印象を重視していたと書かれている。確かにそれはスタンスとしてあったのかもしれないが、ベースになっているのは彼自身の強迫観念ではないか──と感じられてならない。

その強迫観念にはいくつか種類がありそうだが、最も強いのは「生きたまま死ぬこと」への恐怖ではないかと私は思う。有名な『黒猫』(4巻)もそうだし、そのまんまタイトルになっている『早まった埋葬』や『陥穽と振子』(いずれも3巻)も、共通して「生きたまま死んでしまう」という状況を描いている。

「生きたまま死ぬ」……というのもちょっと変な日本語だ。言い換えると「まだ生きているのに死んだものとみなされてしまう」、あるいは「まだ生きられるはずの人間がギリギリ死に近づいてしまう」という状況のこと。

──ポオの頭の中では、この恐ろしい妄想がこだましてしまい、逃れられなかったのではないだろうか?

まったくの個人的な想像にすぎないが、そう感じられるほどにこのテーマは彼の作中に繰り返し登場する。しかも、各々の「私はまだ生きてるのに!」という叫びが、とても切実なのだ。本人(生きているのに死んでしまう人)の恐ろしい声だけでなく、うっかりその状況を作ってしまった周囲の人間の恐怖もあったり、作品によって異なる語り口が使い分けられている。

一方の乱歩作品からは、そういった強迫観念の表出を(個人的には)感じない。『芋虫』『鏡地獄』のように気が狂いそうな状況を描く作品もいくつかあるのだけれど、どれも乱歩自身の内なる恐怖ではなく、あくまで物語として第三者的に描かれた恐怖という気がする。

二人は似ているようで少し違うのかもしれない。

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長くなってしまったけれど、もう一つ。ポオの作品は書き出しが上手い。「正直、書き出しが一番よかったなぁ」という作品もある(特に1巻は多い気が)。期待感をそそるのが上手いのだ。

 かりにしばらくウィリアム・ウィルソンとしておこう。なにもわざわざ僕の本名をあげて、僕の前のこの美しい紙面を汚すことはないからだ。
(「ウィリアム・ウィルソン」)
 いかにして、いつの時、また正くはいずこの地で、リジイアという女性と知り合うようになったか、私は心の奥底をまさぐるともおもい出すことはできない。もはや永い歳月は流れ去り、はてしない懊悩は私の記憶を弱めてしまっている。いや、いま私がそれらのことを精しく心に呼び戻すことができぬというのは、あの恋人の性情、まれなほどの学識、あやしくも静かに澄んだ麗容、低い楽音のような言葉が心を慄わせ魅する響きなどが、私の心のうちにしずしずとひそやかに忍び入ってきたのであって、いかにして何時どこでなどとは気づくひまもなかったからであろう。
(「リジイア」)

最後に残った2巻には、どのような作品が並んでいるのだろう。楽しみだ。

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