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【読書】「生物多様性というとき重要なのは、種の多様性ではなくて『生きる論理』の多様性である」

■日高敏隆『ネコの時間』

生物多様性というとき重要なのは、種の多様性ではなくて「生きる論理」の多様性であると思う。

『ネコの時間』P.23

──

自慢ではないけれど、私は「生物」という教科にけっこうな苦手意識がある。

高校生の頃、文系コースを選択すると有無を言わさず全員が(理科のうちでは)生物を選択させられた。詰め込み教育の弊害か、はたまた不真面目な生徒でちゃんと聞いていなかっただけかもしれないけれど、生物の授業では「理由」の説明が少なかったように思う。この世界に多種多様な生物が存在することの神秘性は理解できた、でも「なぜそうなるのか?」を欠いた現象や用語の羅列が、ただの暗記に思えて楽しめなかった。

この『ネコの時間』の良さは、そうした生物世界の「なぜ?」をひとつひとつ丁寧に語ってくれるところ。そして、その語りが硬くないのに論理的で非常にわかりやすいところにある。

初学者向けの生物学本──というほど真面目ではないが、エッセイと言いきれるほどラフでもない。生物学者というよりすごく物知りのおじさんが、目を輝かせながら語ってくれるお話のようだった。


チョウはなぜ美しいのか

タイトルは『ネコの時間』となっているが、ネコのような哺乳類の登場はむしろ例外で、多くは昆虫に関する話題である。

たとえば「チョウはなぜ美しいのか?」という素朴な問いに対し、著者は論理的に、順を追ってその理由を紐解いてくれる。

私たちがチョウを美しいと感じる理由──それはチョウの羽が色鮮やかであり、ヒラヒラと華麗に舞うからであり、もっといえば明るい時間帯に美しい花の間を縫って飛ぶからである。ではなぜチョウはそのような姿形になっており、そのように振る舞うのか?──という具合である。

チョウは昆虫という莫大な動物群の中の、ひとつのグループである。グループである以上、それがひとつのグループをなしている必然性があり、そのグループに共通した論理があるはずである。それはイメージよりももっと論理的なものであり、したがってもっと感覚的なものである。それは、チョウがなぜチョウであってカブトムシではないのかという問題に触れることである。

「チョウという昆虫」/『ネコの時間』P.63

生物全般に対する苦手意識が強く、かつ(苦手から発展して)興味すらあまり抱けずに生きてきた私のような人間にとっても、著者の解き方がきれいに論理的なおかげでどんどん引きこまれた。


生物たちの、そして人間の「生きる論理」

以上のような個別の生物に関する話題に入る前に、「生物たちの論理」という章がある。この章が全体を見通す役割をしていると思われ、個人的には興味深くかつ重要な内容だった。

人間の見る世界と人間以外の生物の見ている世界とが違う、ということではない。人間以外の生物の見ている世界も、おそらく生物ごとに違うのである。それぞれの生物は、そのそれぞれのもつ感覚(知覚)の枠に従ってそれぞれの世界を構築しているからである。
 このような思いで生物たちの領域を見るとき、ぼくは自分が旅している世界の豊かさに、今更のように気づくのである。

「生物たちの論理」/『ネコの時間』P.29

生物多様性というとき重要なのは、種の多様性ではなくて「生きる論理」の多様性であると思う。

「生物たちの論理」/『ネコの時間』P.23

上に書いたチョウもそうだし、蛾にも、ネコにも、アメンボにもそれぞれに「生きる論理」がある。

「世界」は通常、人間の知覚で感じる世界のみだと思えてしまうが、実際には各々の生物がそれぞれ知覚する数だけ多様に「世界」は存在するともいえる。このあたりはユクスキュルの『生物から見た世界』を読み直したい(内容あまり覚えてない……)。

──

ここでふと「私たち人間にとっての『世界』はいま、どうなっているんだろう」と、立ち止まって考えたくなった。

生物たちは各々の「世界」の中で生きている。その「世界」で生き抜くために必要な姿形をとり、必要な行動をする。それがつまり各々の「生きる論理」ということだ。

では人間は?

私たちの「世界」と、そこでの「生きる論理」は現時点でどうなっており、今後どこへ向かうのだろうか?

──

私はすこし前にApple Watchを買い、毎晩腕につけて寝るようになった。常に腕時計をつけているという生物的不自然は百歩譲って許せたとして、自分の身体に関するセンサー機能がその電子機器に譲り渡されつつあることにすこし問題意識を抱いている。

──毎朝目を覚ますと、真っ先にiPhoneで「AutoSleep」というアプリを開く。このアプリはApple Watchを経由して、いつ眠りについたのか/トータルの睡眠時間/深い睡眠の割合/心拍数の変化……等々を自動で記録してくれている。

そのログを開き、ある時は「あぁ今日はよく眠れたようだ」と安心し、ある時は「あれ、深い睡眠が足りないけど今日は大丈夫かな」と不安になる。

確かにその機能は役に立ち、私の生活を支えてくれる。けれども、目を覚ましてから真っ先にアプリを開いてしまう自分は「身体の声を聞く」という能力を失いつつある気がしてならない。

「自分がぐっすり眠れたかどうか。その判定すらも機械に任せてしまって、本当に大丈夫?」

やや不安になりつつも、だからといって便利さを手放すことが正しいのかわからない。そんなことを言い始めたら、時計がないと時間感覚もなく、カレンダーがないと季節もわからず……すでに人間が譲り渡してきたセンサーなんて数えきれないのだ。

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こうして自分の能力が衰えていくのは「退化」ではないか、という不安がある。かと言って、未来への興味を捨てて自然派生活を選択することが「進化」なのかと問われると、それもまた違う気がするのだった。

スマートウォッチどころではなく、VRやARなどを例に、人間の世界はどんどん拡張している。乗り遅れまいと感じる自分と、そこの「生きる論理」に疑問を抱く自分と。

この本に登場する生物たちの知覚するシンプルな「世界」が、少しだけうらやましかった。



編集後記

ただの愚痴ですが……「文系→生物」という設定からは、「文系に行きたい人は数学が苦手で暗記が得意でしょ」というステレオタイプが透けて見えます。しかし私は逆でした。

後から完全独学で勉強した物理は、もともと数学が好きな自分にとってすごく相性がよかったのです。常に足を引っ張っていた生物と違って、物理は安定した得点源にすらなりました。

そもそも私の脳が文系向きではなかったのかもしれないけれど、もっと自由に選択できるといいなぁと思うし、そもそも文系や理系という区別ってどうなんでしょ……などという話はまた別の機会に……。

*こちらの本はReiさんのTwitterで紹介されていて知りました。ありがとうございます!



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