読書の「正しい」方法論
「最近読書をしていて悩ましいのが、ちまちまと隙間時間に読み進めるから、一冊読み終わる頃には内容を忘れちゃうってことなんだよね〜」
そんな話を会社でした。すると後輩が、
「僕はそもそも興味のあるところしか読まないし、めっちゃ斜め読みするから、時間がかからないんですよね」
と言った。
なるほど、無駄な時間を嫌う彼の性格からして、驚くような発言ではない。けれどもなんとなくショックだった。どちらが良い悪いの話ではないが、私たちのスタンスは大きく違うような気がした。
「なんとなくショック」の理由を、しばらく考えていた。
特段意識したことはなかったが、私は、彼の言うような「斜め読み」をあまりしない。基本的には一字一句を目で追うような読み方をする。
これには「トレース」という体験が近そうだ。「トレース」とは、設計図の上に薄紙(トレーシングペーパー)を重ねて、原図の線をなぞることをいう。CADやプリンターなどテクノロジーが進歩した現代では、そのようにアナログな手法をとる必要はなく、私自身も設計の授業で体験したのが最後である。また、遥か昔の記憶だけれど、書道でも「手本に半紙を重ねてなぞる」というステップがあった気がする。
まぁとにかくそのように、私にとっての読書は言葉をなぞることに近いのだな。と気づく。
・・・
少し話は変わるが、最近の英語勉強法では「発音」が重視されていると聞く。シャドーイングもその一つで、ひたすら発音を口で真似することによって、結果として耳も鍛えられるらしい。
どうも、発音を鍛えることの効果は「上手に喋れるようになる」だけではないようだ。自分の発音が鍛えられると、文章を読んだときに頭の中で鳴り響く発音がネイティブに近くなり、結果として「文章を読むことで擬似リスニングができる」ようになるという。
たしかに、私が日本語の文章を読む際には、自分がその文章を朗読する声が頭の中で鳴り響いている。──今、この画面でも。
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読書に話を戻すと、
私が文字を一字一句(多少は飛ばしながらも)なぞっている時に、その文章は頭の中で鳴り響いている。だからスピードに限界がある。ここでかかる時間は著者の思考への憑依体験でもあり、だからこそ、著者の人格や物事の核心により迫りやすいのではないか。と、自分では思っている。
「斜め読み」のやり方はおそらく違って、本という画面の中に現れる単語をピッピッと目で拾い上げていく感じだろう。いわゆる「速読」のテクニックもそういう方法だと思う。この方法ならばより効率の良い情報収集ができる。
つまり、
・斜め読みをする彼は:情報収集をするために読書をし、
・なぞり読みをする私は:憑依体験をするために読書をしている。
ここをさらに深掘りすると、面白い違いがあった。
・情報収集のために読書をする彼は:得られた情報を他人に共有することに意義を見出すが、
・文章をなぞるために読書をする私は:本から得られた感覚を自分の中に蓄積して楽しむ。
という違いがある。
もっとざっくり要約すると、
・彼は:外向的で、
・私は:内向的だ。
と言える。
(今回たまたまそうだっただけかもしれず、因果関係まではわからない)
私が読書に求めるものはとても内向きだと思う。「自分が成長すること」が最終目的だ。
でもそれって、なんの意味もないよね。と言われればその通りで、私は学者ではないし、どんなに成長したっていつか死ぬ。その無意味さは、外向的な人にとってひょっとしたら苦痛なだけかもしれない。
他人と自分は違う。その事実をよく忘れてしまう。
例えば、「読書をしたい」と言う夫にショーペンハウアーの本をいきなり渡す、という事件?もあった。
夫は私とは違う人間だし、今思えば、「本から得られた感覚を自分の中に蓄積して楽しむ」タイプではない。
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読書に限らず、他人に自分を重ねて評価してしまって、勝手に落ち込んだり怒ったり、そんな場面が増えた。年齢を重ねて謙虚さが失われたのかもしれない。
後輩の発言を聞いて「なんとなくショック」だったのは、彼の読書が自分の(大好きな)読書と違ったからだ。私は自分の読書スタイルに愛着があり、無意識に「正しい」と信じていた気がする。
当然ながら、読書に「正しい」方法論なんてない。
──自分の信念を貫ける人間になりたい。と同時に、自分の価値観が一つの選択肢に過ぎないことをわきまえた人間にもなりたい。
その両立がなかなかうまくできなくて、よくつまづいている今日この頃。
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