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性からの解放、性への解放

■マリオ・バルガス=リョサ『楽園への道』

「女神か。娼婦か。この女は何者なんだ、コケ」
「女神で娼婦で、他の者でもある」とポールは友人たちのように笑わないで言った。「それがこの絵のすごいところさ。一人の女の中に千の女がいる。あらゆる欲望の、あらゆる夢のためのね。俺が飽きない唯一の女だ。今では俺にはほとんど見えないがね。でもこことここ、そしてここにあるぞ」
 そう言いながら、コケは自分の頭と心臓とペニスをさした。(P.460)


ずいぶん前に、池澤夏樹編纂の世界文学全集の一冊として刊行された『楽園への道』(ハードカバー)を購入して、途中まで読んでいた。……しかしそのボリュームが当時の私には重く、また、ハードカバーの読みにくさも相まって(私は文庫本の小さくて柔らかな持ち心地が好きなのだ)、途中で挫折してしまっていた。

今回文庫本が発売されたのであらためて購入し、やっと読み終えることができた。

やはり、ボリュームはなかなかのものだった。ワクワクドキドキするタイプの小説ではないし、私個人として最も苦手意識のある「歴史」「政治」がテーマに絡むせいで、やや苦しみながらの読書ではあった。

なぜそこまでして読んだのか?『楽園への道』では、私が最も愛する画家であるポール・ゴーギャンが主人公の一人となっているからだ。


対の構成

この小説は、「2」あるいは「対」に基づき構成されている。

まず、主人公が2人。フローラ・トリスタンと、ポール・ゴーギャンである。

フローラ・トリスタンは、労働者階級と女性を解放するために尽力した、女性革命家であった。そしてポール・ゴーギャンは、フローラの孫である。男性の画家であり、タヒチの原住民を描いた色鮮やかな油絵で有名だ。一般的にはゴーギャンのほうが有名だろう。その2人の物語が描かれる。基本的に史実をベースにしているが、記録がない部分の多くは作者の手によるフィクションだ。

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2つの物語が、奇数章ではフローラ、偶数章ではゴーギャン、と交互に進んでいく(村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に似ている)。しかも、ただ交互に進むだけではなく、2人それぞれの〈現在〉と〈過去〉が頻繁に入れ替わりながら描かれていく。

つまり、

奇数章/フローラ(女)|現在〜過去〜現在…
偶数章/ゴーギャン(男)|現在〜過去〜現在…

このように重層的な構成だ。まずこの構成が、『楽園への道』を特徴づける音楽的な面白さだと感じられた。同時にこの構成が、理解の難しさにもつながっている。


「性」と楽園

「対」の構成が最も際立つのは、2人の「楽園への道」に対するアプローチの違いである。

フローラも、ゴーギャンも、地上の楽園を熱烈に追い求めた人物だった。その意味で彼らは確かに血の繋がりを感じさせる、共通した激しさを有していた。

しかし表面的なアプローチは全く逆であった。

フローラが追い求めたのは「性から解放された末の楽園」であり、ゴーギャンが追い求めたのは「性を解放した末の楽園」であった

これは私の個人的な解釈だが、『楽園への道』をシンプルに表現するならばこうなるだろうと思う。つまり、

性 →(解放)→ 楽園

という図式であり、その「(解放)」が2人において真逆だった、ということだ。


あまり言葉を濁すと「性と解放ってなんやねん」となってしまうので、ここはハッキリと書いておく。「性」とはつまり「セックス」である。比喩的な意味でも抽象的な意味でもなく、文字通りの「セックス(性行為)」が、この文学の紛れもないテーマだ。

つまり──先ほどの文章を書き換えると──フローラが追い求めたのは「セックスから解放された末の楽園」であり、ゴーギャンが追い求めたのは「セックスを解放した末の楽園」であった

フローラ・トリスタンは、夫から受けた陵辱(と彼女自身は感じた)によって「男女の結婚=女性を性の奴隷と化すこと」というやや極端な図式を頭の中にこしらえてしまった。なおかつ、当時は労働者の待遇があまりに酷かったこともあって、「労働者&女性を解放しよう!」とエネルギーを爆発させたひとだった。彼女はセックスが大嫌いだった。一時期同性愛に足を踏み入れた際には純粋なセックスの悦びにふけったようだが、結局は「やっぱり革命が一番大事だ」となってしまった。

一方のポール・ゴーギャンは、もともと堅い職業に就いていたのに30歳を過ぎていきなり絵画に目覚めてしまい、紆余曲折があった末に、タヒチという南国の内に未分化な文明を追い求めるようになった。彼はその年齢から急にアーティストになり、ボヘミアンになり、性的に奔放になった。彼にとって、性欲をありのままに発散することと芸術とは表裏一体だった。タヒチの原住民は当時、ヨーロッパ人に比べて性的にオープンだった。彼自身もそこに染まっていった。

西洋美術は原始芸術の中にある生活の総合体から分離することによって衰退してしまった。原始芸術では、美術は宗教とは切り離すことはできず、食べることや飾ること、歌うこと、セックスをすることと同様に、日常生活の一部を形成している。おまえは作品の中にこの伝統を復活させたかった。(P.522)


──というように、2人とも極端なほどに「性」という強迫観念に取り憑かれてしまっていた。本当の事実がどうだったかは知らない。が、少なくともバルガス=リョサはそのように描いている。

両極端なように見えて実は、彼らのエネルギーは一言で言い表せるのかもしれない。つまり、

「既存の(主には性に関する)価値観を覆した先に、自分の信じる楽園があるに違いない」

という強い信念だ。こういった強い革命心とでも呼ぶべきエネルギーは、現代を生きる私たちにはなかなか持ちづらい。特に、周囲との調和を重視する日本人には持ちづらいものだ。ある意味でうらやましい。

果たして、彼らは、楽園に辿り着けたのだろうか──。


ゴッホとゴーギャン

最初に書いたように、私のモチベーションはゴーギャンにあった。ゴーギャンが好きだから読んだ、と言っても過言ではない。

一般的にゴーギャンよりも人気であろうフィンセント・ファン・ゴッホも「狂ったオランダ人」というあだ名で登場する(有吉並の激しいあだ名が本作の面白さの一つ)。

ゴッホとゴーギャンは一時期一緒に暮らすほどの親友だった。しかし次第に歯車が噛み合わなくなり、ゴーギャンがゴッホに別れを告げた。そのショックでゴッホは耳を切ってしまい、最終的には自殺してしまった。

恋愛関係ではなく、友人だったのに……。ゴーギャン 目線で読む限り、ゴッホはかなりやられてしまうタイプの人だったようだ。

彼らの論争で面白かったのが──これも性に関する話になるけれど──ゴッホは「性欲が自分の創作を邪魔する」と言っているのに対し、ゴーギャンは「性欲があればこそ創作ができる」と言っている点だ。言われてみればゴッホの作品はどこか禁欲的である。

ゴーギャンに興味のある方には、個人的には本作よりも先にサマセット・モーム『月と六ペンス』をお勧めしたいです。よりフィクション的で読みやすい。


絵画とは人間全体の表現であるべきだ。画家の知性、職人的技巧、文化、しかし同様に、画家の信仰や本能、願望、そしてまた嫌悪をも含めて。(P.521)


〈画像出典:Wikipedia

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