言葉/イメージ/痛み
言葉
自身の新しい言語(英語)の習得と、子どもの言語(日本語)の習得のタイミングが被っている毎日が、偶然とはいえとても刺激的だ。発見の連続である。
気づき、一。「名前→物」の変換は簡単。「物→名前」の変換は難しい。
最近の娘(二歳目前)は特に名詞の語彙をどんどん増やしている。例えば絵を指さして「ゴリラはどれだ?」と尋ねると「これー!」と指さす。しかし「これ(ゴリラ)は何だ?」と訪ねても「ゴリラ!」とは言えない。
体感的に、「名前→物」ができる言葉10のうち「物→名前」ができるのは2〜3程度だ。
気づき、二。言葉の操作とコミュニケーションは少し違う。コミュニケーションには、大きくは文化の理解、小さくは人間関係が深く関わる。
例えば私がどんなに英語を理解しても、相手の国や文化がわからなければ話が通じなかったり、簡単に怒らせてしまう。さらに、文化だけでなく相手のまさに今いる状況や人間性を知らなければ、これも同様に会話が成立しない。日本人同士でも同じことだが。
私は最近、遠方の途上国の人とやり取りしている。しかしその国は日本と昼夜逆転しており、私自身はその国に行ったことがなく、その人に会ったことすらない。日本語でも難しいSlack上のコミュニケーション。英会話と別次元で四苦八苦しているように思える。
逆に娘は、我々の家庭という文化に丸ごと飲み込まれている現状で、人間としても理解し合っている。だから言葉が不自由なのに会話が成り立つ。また、こちらが少し口調を変えただけで敏感に感情を察知し、態度を変える。(ちなみにその反応は、自分を見直すきっかけにもなる。)
イメージ
ある日都内の駅で、こんなポスターをみつけた。
その瞬間、なんとなく自分の内部で説明しきれなかった「言葉とイメージ」の関係が、一気に解けるような感覚を覚えた。
感覚(目や耳)
↓認識↓
記号(文字や音)
↓変換↓
イメージ
↑引用↑
経験
この話を詳しく書きたいと思う。
・・・
ポスターの構成はシンプルである。
09:34/15:08/16:52 という数字がそれぞれ中央に書かれている。
その背景を上下に二分するように、上に乗客、下に都営交通職員のシーンを描いた写真が使われている。朝/昼過ぎ/夕方 という3つのシーンだ。
キャッチコピーは「黙々と『今日』をつくる」。
さて、ここで「09:34」「15:08」「16:52」は、時刻という名の記号である。
この記号は本来、「1日のうちある1分間を特定する」以外の意味をもたない。
しかし例えば「09:34」という数字が白い紙に書かれている時、あるいはラジオから聞こえてきた場合、人は脳内に何らかのイメージを抱くのではないだろうか。
例えば、朝の光。
例えば、朝食が並ぶ食卓。
例えば、通勤電車。
例えば、オフィスのデスク。
もしくは具体的な絵ですらなく、五感が総動員された「なんとなくの09:34」かもしれない。いずれにしても「無」にはならないはずだ。
つまり、人は認識した記号の向こう側にイメージを抱くことができる。
とはいえ生活スタイルは人によって異なる。だから09:34のシーンは散歩かもしれないし、朝食かもしれないし、通勤かもしれないし、オフィスかもしれない……。状況は千差万別であり、結果としてそれぞれのイメージも違ってくる。
つまり、イメージの根源は、経験の集積である。
まとめると、
記号を認識した時、人はイメージを抱く。
そのイメージは経験から生まれており、人によって異なる。
・・・
ポスターの話に戻ろう。
数字は時刻、つまり「記号」である。
背景はシーン、つまり「イメージ」である。
この背景に具体的な写真をあてがったのは、記号(時刻)が見る人に与えるイメージを固定したかったからだろう。
おそらく多くの人は、写真上半分の乗客に自分を重ねるだろう。上半分の写真のような状況は、この駅を利用する多く人が「経験」した(している)。だから経験を記憶から呼び出して、イメージすることができる。一方でほとんどの人は、駅員という経験をしたことがない。
結果としてこのポスターは、見る人に対して「上半分が自分/下半分が相手」という印象を与える。そこに重ねられた時刻は、両者が同じ時間を共有していることを感じさせる──という狙いと思った(違ってたらごめんなさい)。
通常私たちは、目や耳で記号を受容して、イメージを抱く。
式にするとこうだ。
感覚(目や耳)
↓認識↓
記号(文字や音)
↓変換↓
イメージ
↑引用↑
経験
しかしこのポスターは、見る人の変換過程を固定する。
感覚(目や耳)
↓認識↓
記号(文字や音)
=固定=
イメージ
↑引用↑
経験
特別に新しい演出ではないが、とても露骨で面白い表現だった。何より、露骨だからこそ自分の脳内を整理させてもらえた気がする。
・・・
冒頭に書いた「気づき一」「気づき二」もこの話と関係づけられる。
「ゴリラ」が言えない娘には、イメージの根拠たる経験が圧倒的に足りない。記号(音)としての「ゴリラ」を発語するには、もう少しゴリラを知る必要がある。当然かもしれないが、娘はよく知っている(見ている、聞いている、食べている……)物ほど言葉として操れる。
私自身も英語を学んでいて同様の感覚を覚えている。単語やフレーズを「知っている」状況と「使える」状況の差は大きく、その差を埋めるものは経験に他ならない、と痛感する日々だ。実際に経験するのが理想的だが、それが難しければ、ネット上から他人のエピソードや具体的な意味などの情報を大量に接種して、自分の経験と無理やり結びつけている。そうしてイメージが形成されてやっと、記号が身体に染み付く(この過程に思いの外時間がかかる)。
文化や人間関係の話については、結局のところコミュニケーションはイメージの交換ということだ。文化が違うと、経験が異なり、結果としてある記号(言葉)から抱くイメージも人によってまるきり違ってしまう。だから、記号を交わしていても、イメージを交わすことができない。
「会話のキャッチボール」という表現は、「記号のキャッチボール」ではなく「(記号の向こう側にある)イメージのキャッチボール」なのだろう。
痛み
言葉とイメージの話(少し前から寝かせていた)を発展させて、昨日はっと思いついたことがある。
娘は現在「痛み」に対してあまりに無知である。
だからこそ怖いもの知らずで冒険もできる。高いところに登るだけでなく、包丁やハサミや自動車など「痛み」の原因を理解できていない。しかし命に関わる行為や他人を傷つける行為は別として、すべて親が防ぐことは不可能だし、そうするべきでもない。おそらく今後の人生で何度か肉体的/精神的に痛い経験を積み重ねる必要があるのだろうな、自分もそうだったのだ──と考えていた。
あれ、これってさっきの「記号(言葉)」と同じかもしれない。
感覚(目や耳)
↓認識↓
痛み
↓変換↓
イメージ
↑引用↑
経験
言葉よりもむしろ痛みを当てはめたほうがこの式はわかりやすいように思う。
少し前に、知り合いの大学教授が「ゼミの学生がちょっと(精神的に)病んじゃってさ〜……困るよね」という話をしていた。口調から、その人が「精神的な病」に対してとても無知であり、なおかつ未経験であることがわかった。彼女はこの種の痛みを知らない。その良し悪しはともかくとして、経験がないからこそ、痛みをイメージしがたいのだろうと思った。
私自身、自分の「痛み不足」を恥じる機会がたくさんある。恥じるのはまだ良い方で、気づいてすらいないこともあるだろう。
これはコミュニケーションの失敗より、何倍も深刻なことだ。
ヴィトゲンシュタインが行った「箱の中のカブトムシ」という思考実験を思い出す。
人間はすべて独立した生物であるから、本当の意味で何かの価値観を共有することなどできない。それでもコミュニケーションをとり、痛みを理解しなければならず……。
ちょっと深みにはまってしまいそうなので、このへんで。
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