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論理学という厳しくて寛容な体系

■野矢茂樹『入門!論理学』


「私」について書いた以下二つの文のうち「論理的に正しい推論」はどちらだろうか。

(1)彼は酒豪だ。私は彼の娘である。よって、私は酒が好きだ。
(2)私は男である。男はみな酒が好きだ。よって、私は酒が好きだ。




まず(1)について。「彼」が私の父を指すことは二つ目の文からわかる。父は事実、酒豪であった。

次に(2)について。そもそも私は男ではない(女である)。さらに、男が酒好きとは限らない(酒が嫌いな男だっている)。

そして、どちらも導かれた結論は「私は酒が好き」。事実です。

で、この場合、論理的に正しい推論は(2)になる。

(1)は、ふたつの前提が事実に合致している。しかし、論理の飛躍がある。「酒好きが遺伝する」という情報は与えられていないし、仮にそうだとしても私にその遺伝子が引き継がれているかどうかもわからない。つまり、前後の文脈と常識を用いて、勝手に行間を埋めてしまっている。

(2)は、ふたつの前提が事実と合致していない。しかし、その前提が正しいとした場合に、結論を導く過程は論理的である。


このように、論理学が扱う言葉はとても「厳しく」そしてとても「寛容」だ。そんなことがよくわかる一冊だった。

論理学の厳しさは、ちょっとした常識や感覚による「決めつけ」を一切許容しない(1)。「前後の文脈からいって、こういうことでしょ?」という空気の読み方をすると、怒られる。

一方で論理学は、ありえないくらい寛容でもある(2)。私は女なのに「私は男である」から始めても、それが論理的に妥当な演繹的推論ならオッケー。になってしまう。

このあたりが、ロジカルシンキングの危うさではないだろうか。つまり、論理的に思考しようとすると

(1)空気を読んで文脈から判断することを許容できなくなり、
(2)前提の正しさを無視して論理的かどうかだけで判断しがちになる。

これはただのコミュ障である。(いや、いかんせん自分にもそういう思考回路があるので、これは自分への警笛です。)

論理的思考はそのように、厳しいからこそ気持ちよく、寛容だからこそ気持ち悪いという、変なやつだ。


この本は、論理学の「ろ」の字も知らない人でも、論理学というものに、表面的ではなくその真髄に触れられる良書。ノリが軽くて読みやすいから、論理学に興味をもっている、最近もったような人にお勧めです。

注意したほうがいいのは、

・この本を読んでも、論理的に思考できるとは限らない。この手の論理学…記号論理学は、ほぼほぼ数学なので、実践レベルではないと思う。英語の文法を学んでも英会話ができないのに似ている。実践レベルで論理的に思考するのは、もっと「慣れ」ではないかな。

・縦書きで、記号を使わない。という意欲作だけれど、正直に言ってやはり表現が冗長。「((Aではない)ではない)」のように…数学が好きな人には記号のほうが読みやすいかもしれない。

数学が苦手な人は中盤から挫折するかもしれない。逆に数学、特に証明が好きな人は、ノートを出してきて自分で書いて証明して、芯まで理解できると気持ちいい(私です)。


余談ですが、自分でもなぞって証明していてわからないことがあった時に、「先生!」と質問したくなった。でも、質問できないのが残念で。これが授業だったらなぁ……と、高校の授業を思い出した。自分は不真面目な学生だったと思い込んでいたけれど、そういえば、数学の授業のあとにはよく質問していたような。けっこう真面目だったのかもしれない……どうでもいいけど。


私がなんとなく捉えた「論理学」というものは、まず、今書いたように「ガツガツ証明する、数学っぽいやつ」。これは論理学の楽しさの一つだろう。理系大好物案件。(でも扱うのが言葉というのが、萌えポイントでもある。)

しかし一方で「なぜ論理的に思考する必要があるか。これは間違っている気がする、だとすれば何が正しいのか。そんな答えのない問いにまで足を突っ込む、哲学のひとつ」でもあるのだなぁと。

むちゃくちゃドライな前者と、むちゃくちゃウェットな後者。それらが組み合わさっていることが、論理学の底知れない魅力だと思った。

これまた足を突っ込むと容易に抜けない、危険極まりない沼だ。

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