12時間後

子どもができたことを知ってから、その事実を受け入れるまでの葛藤や不安をこのnoteに書いてきました。

自分なりに必死で考えて「私でもきっと子どもを愛せるだろう」という結論に至り、子どもを出産しました。

・・・

出産という行為は想像以上に壮絶でしたが、なんとか二人とも健康に分離(?)。その瞬間は脱力と安堵と解放感で全身が一杯、震えが止まらず、一瞬目にした子どもの顔には特別な感情を抱く余裕もありませんでした。


翌朝から子どもが自分の部屋に運ばれてきて、二人きりの時間に。これまで子どもに興味のなかった私にとって、抱っこすらほとんど初体験でした。


……それから約12時間が経過し、夜、夫とやりとりしていて飼い猫の話になったとき。

ああ、私、もう今までみたいに猫を愛せなくなった。

突然そう感じ、涙が止まらなくなってしまいました。

・・・

私は、たった12時間を一緒にすごしただけで、自分の子どもを心の底から愛してしまったのです。


その感覚が痛いほどに強烈で、複雑な感情が溢れて、爆発してしまいました。

出産前にさんざん「可愛いと思えるだろうか」「愛せるだろうか」と心配していたことが愚かしく思えるほどに、実際に触れたわが子の引力は底なしでした。

可愛いとか、愛しいとか、そんな次元ではなかった。胸が苦しくなるほどに、大切で大切でたまらないのです。

「こんなにも大切な存在を有してしまった自分の人生は、昨日までとは絶対に異なるものになる」

という確信……それが悲しくて、病室でおいおいおいおい泣きました。

・・・

出産までの私の心を励まし支えてくれたのは、猫の存在でした(夫も支えてくれるけれどそれとは違う意味で)。里帰りで猫と離れている私のために、夫は毎朝晩猫の写真を送ってくれた。それを楽しみに毎日過ごしていました。

私は、本当に猫のことが好きでした。冬は毎晩猫を布団に迎え入れて寝ていたし、仕事の合間にも猫と触れ合うのが癒しだった。猫のいない生活なんて考えられなかった。

……でも今は、違う。もっと大切で、もっと優先すべき存在ができてしまった。その存在はたった12時間で猫に取って代わってしまった。

単純に、恐ろしく感じました。そのあまりの強さが論理的に説明不可能であること、と、これまでコツコツ積み上げてきた「自分」の世界が12時間で崩されてしまったことが、幸か不幸かの問題ではなくショックだったのです。

私がずっと育て上げてきた身の回りのものへの愛着も、美しさへの執着も、読んだ本のレビューも、小難しいごちゃごちゃした考えも、すべてが一瞬で色褪せてしまったような感覚でした(一時的かもしれないけど)。


子どもがいる人生は、子どものいなかった人生とは決して交わらない、パラレルワールドだと思います。

・・・

うまく説明できないけれど、子どもを産んだ人生が残念だという意味ではありません。絶対的に幸福な出来事だと思っているのだけど、かといって、失ったもう一つの人生に簡単にサヨナラもできないのです。その人生や価値観は私が長い時間をかけて築いてきたもので、どんなに幼稚でも、未熟でも、それが自分だったから。

これまでは、自分が世界の中心に立ち、その両目から世界を見ていると思っていました。

でも今は、自分の目の前に大切なわが子がいて、その子どもの向こう側にしか世界が見えないのです。

この事実を突きつけられた瞬間は、ホルモンバランスの変化も相まってか、頭をガツンとやられて細胞がバラバラになったような衝撃を受けました。

・・・

相変わらず、子どもという存在全般に興味をもったわけではなく、やっぱり自分の子どもだから大切で可愛いのだと思います(決して美形なわけではないのに、自分の子どもだけが竹の中のかぐや姫のごとく輝いて見える)。

けれども以前と違って、子どもが犠牲になる事故や子どもを失う親の気持ちに、果てしなく共感するようになりました。想像するだけで何度でも何度でも泣けます。

驚くべきは、こんなに大きな変化が本当にわずかの時間でもたらされたということ。

そして……子から親への愛は、親から子への愛に到底及ばないということを、痛感しています。親から子への愛はたぶん、理屈ではなく本能なのです。

私はこれから一生、この大切な存在を守るために努力するだろう──そう確信しています。

・・・

まとまらないけれど、今の素直な気持ちをここに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?