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「ぼくはもうぼくでいたくなかったからです」

■ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン〈上〉〈下〉』

「どうしてこういうことが起こったのだと思いますか、ビリー」
「養父がぼくにしたことのせいです。ぼくはもうぼくでいたくなかったからです。ビリー・ミリガンになりたくなかったんです
(下巻 P.371)


この本は、1977年にアメリカで起こった連続レイプ事件の犯人をめぐる実話である。

十分な状況証拠をもとに捕らえられたビリー・ミリガンは、動揺し、犯行を否定する。取り調べを続けるうちに彼が24もの人格を脳内にもっていること、つまり「多重人格障害」(※本書の表記のまま)という精神の病にかかっていることが判明してきた──。

著者のダニエル・キイスは小説『アルジャーノンに花束を』で知られる作家だ。キイスはビリーと心を通わせ、何度も対談してこの本を書き上げた。

余計な脚色のない長いルポタージュは、全体的に暗いので、読む側としても精神力を整えて臨んだほうがいいと思う(不安定な状態で読むと引きずられるかもしれない)。

私は、この事件を本書ではじめて知った。多重人格障害(今は「解離性同一性障害」というらしい)についてもほとんど知識がない。そのような超素人として読んで考えたことを、人を傷つけない範囲で以下二点に絞って書いてみたい。

(1)人格と能力について
(2)精神疾患と犯罪について


(1)分化した人格と統合された人格

ビリーには24の人格(彼自身は「人格」ではなく「人物」として扱ってくれとリクエストする)が存在し、それらを頻繁にスイッチしながら生きてきた。

まず驚いたのは、各人格間の差が、私が想像していた多重人格の概念を遥かに超えて大きいことである。

例として以下のようなものがある。

性別が違う(ほとんどは男性だが数人の女性がいる)
年齢が違う(幼い子どもがいる)
・話す言語が違う(自分をイギリス人だと感じている者がいれば、ユーゴスラビア人だと感じている者もいる。実際に口調まで変わる)
IQが違う(高IQな人格がいる一方で、平均よりかなり低いIQの人格もいる)
身体能力が違う(ある人格は非常に力が強いが、他の人格は概して弱い)

名前や性別や年齢はまだしも、なぜ言語や身体能力まで異なるのか?そのようなことが人間のメカニズムとして起きうるものなのか?……この点はかなり不思議だけれど、専門的な話になるだろうから今回は保留にする。

興味深いと思ったのは、まず分化した人格は能力的に偏って(特化して)いること。そして、統合された人格の能力は各人格の能力の総和にはならず、特化した能力が薄れてしまうということだ。

本書の中でビリーは統合(一つの人格にまとまること)にかなり近づいた。そのとき彼は、分化した人格が有していた特殊能力──例えば言語能力、身体能力、手先の器用さ、コミュニケーションの上手さ──などを少しずつ失ってしまったらしい。

これはビリーに特有の現象ではなく、多重人格において一般的なことのようだ。

そして私はこれが、多重人格に限らず万人に共通した現象なのだろうと感じ、学ぶものがあった。

能力は、単独で存在させると強くなるはずだ。というのは、人間の能力には必ず表と裏があり、裏を無視して表だけを研ぎ澄ませていればその能力は強くなるはずだから。

例えば「冷静沈着」という性格があったとする。これは良い性格のように聞こえるが、見ようによっては「面白くない」「感情が見えにくい」とマイナスに捉えられるかもしれない。また、「絵が上手い」という能力があったとする。こうした純粋に良い単独能力であっても必ず失うものがある、なぜなら、画力の向上に時間を費やす代わりに他の能力向上(例えば学校の勉強など)がおろそかになるからだ。

ビリーの人格は必要に応じて出入りできた。だから能力の〈表〉だけを向上させればよかった。もし〈表〉で都合が悪くなったら(=〈裏〉が悪影響を及ぼしそうになったら)、別の人格に交代すればよかった。

しかし私たちは人格のスイッチができない。結果として無意識のうちに能力の〈裏〉(つまりネガティブな側面)を補正しながら生きているのだろう。バランスのとれた一つの人格として社会に適応するためだ。それは結果として能力の〈表〉を弱めることにつながる。

「なぜ、統合された人格の能力は分化した人格の能力の総和より劣るのか」と一瞬悩んだが、当然のことかもしれない。

言い換えれば、人間は「悪影響やむなし」と割り切れば、自らの能力を想像以上に高められるものなのだろう。しかしそれが良いことかはわからない。少なくとも私はバランスを重視して能力を高めたいと思っている。


(2)精神疾患と犯罪、加害者と被害者──終着点のみえない議論

こちらはよりデリケートな話だ。

ビリーは多重人格障害であり、原因はおそらく幼児期に受けた虐待のせいだった。精神病だから犯罪を犯したとしても罪に問われないという判決に、すんなりと落ち着いた──わけではなかった。

まず、多重人格というのは本当なのか(フリをしているのではないか)?

次に、精神疾患であれば無罪としていいのか?

そして、もし無罪となったら彼は自由に生活してよいのか?

こうした問題は一般論としてもほとんど解決していない……ように私には見える(専門家の意見はわからない)。仮に上記の三点を精神病と犯罪に関する大きな問題点として設定した場合に、議論がなかなか前に進まないのは、関係者が多いからだと私は感じている。

言うまでもなく「加害者(とその家族)」「被害者(とその家族)」がいる。彼らを一次的な(直接的な)関係者としたら、二次的な関係者として「世間」や「マスコミ」がいる。また、職業上の関係者とはいえ対応がブレてしまうのが「医者」「司法」などの判断を下す役割の人たち、それから「病院」「収容所」などの機関だ。

中でも難しいのが「世間」と「マスコミ」ではないかと思う。「加害者」「被害者」と違って、彼らは当事者ではない。それなのに影響力を強くもってしまい、場合によっては当事者の意見に蓋をしたり意見を変えてしまうこともあるからだ。

「世間」の意見を無視していいとは思わない。例えば加害者が釈放された場合に再犯する可能性もあるわけで、そこで被害者になりうるのは「世間」だ。そうした恐怖は私自身も感じるし、慎重になってほしいと思う気持ちは痛いほどわかる。

しかし、犯罪防止という観点を超えて世間が被害者に強く感情移入してしまうという現象も、私は怖い。本当に裁くべき犯罪なのかという判断は素人にはできない。だからこそ専門家(医者や弁護士や検事や警察など)がいるのではないだろうか。

より気になるのが「マスコミ」だ。マスコミを全般的に非難するつもりはなく、センセーショナルな報道でしか稼げないという仕組みに問題があると私は感じている(これこそモラルハザードだろう)。しかしいずれにせよ、彼らが良心を失って刺激的な報道に走り、それが人間の命運を大きく左右する様子は見るに堪えない。


世間やマスコミの暴走が目に余る、と感じることが最近は増えた。

被害者の感情が痛ましく、悲しく、辛くなってしまう気持ちはよくわかる。けれど、世間としての私たちが被害者に同化しすぎるのは正しいことなのだろうか?被害者は果たしてそれを望んでいるのだろうか?

──と、思う一方で、世間からの賛同を支えに闘っている被害者がいるのかもしれない。苦しみを乗り越えるために、相手を罰する間接的な力を得るためには、世間の支えが必要だと感じている被害者がいるのかもしれない。勇気づけられているかもしれない。そのような人たちにとって、私の意見はひどく冷たく感じられるのかもしれない──という不安もある。

正解などない。

でもずっと考えてしまう。

大量殺人や、大量でなくても殺人や、殺人でなくても犯罪や、犯罪でなくても不貞行為などが起きるたびに、「加害者と被害者は何を思っているのだろう」と考えてしまう。私が被害者の家族になってもこんなことを言えるのだろうか。私が加害者の家族だったらどうしたいのだろうか……。

ビリーは自らの心を守るために生んだ複数の人格により、犯罪を犯した。彼自身が虐待を受けたという辛い過去がある。彼だって被害者だ、と私は思う。

しかしビリーに犯された人にとって、彼の過去による情状酌量なんてどうだっていいのかもしれない。「だからといって、なぜ私が?」と思うかもしれない。その通りだ。

ビリーが精神を病んでいるからといって、周辺住民にとってはそんなの知ったこっちゃないのかもしれない。彼が犯罪を犯す可能性が他の人より高いのは否定できない。もし再犯した場合に誰が責任をとってくれるだろうか。


この問題は、私が今把握している限りで一番難しい問題だ。久しぶりに考えてまた、頭を悩ませてしまった。一生答えはみつからないと思うけれど、諦めずに考えたい。

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