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美術館へ|現代美術の面白さについて

いつからか美術館が好きになった。特に一人で行くのが好きだ。

美術館、旅行、読書。この三つはどれも好きだ。そしてどれも似ている。

三つの共通点は「静けさ」だと思っている。物理的なデシベル数の話だけでなく、自分の頭の中に響く概念的な音量が「静か」だと感じられる。なぜかというと、三つはいずれも能動的な行動を必要とするものであり、だからこそ、自分の頭で考えねばならないものだから。

例えばテレビや動画を観る時、私は受け身になってしまう。受信する情報の速度や量を自分で選択することができない(厳密に言えば速度を変えたり一時停止すればいいのだが)。情報の刺激が強すぎて、頭の中で鳴り響き、思考が一定時間拘束されてしまうような感覚がある。

一方で美術鑑賞をする時は、観たい作品の前に好きなタイミングで・好きな距離で立つことができるし、行ったり戻ったりも基本的には自由である。誰かに押しつけられた情報摂取ではないから、頭の中がガンガンしない。読書や旅行もそう。

もうちょっと簡単に言えば、「静か」とはすなわち「面白すぎない」ということかもしれない。あんまり面白い(刺激が強い)と、波にのまれる一方だ。もう少し自分で操縦したい。

私はとても内向的でマイペースな人間なので、このような感覚が強いのかもしれない。

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今回行ったのは、国立新美術館で開催中の「テート美術館展」。

終了間近なので、平日の朝イチでもかなり混んでいた。年配の方だけでなく「平日の朝イチなのになぜ?」と思うような人も多く来ていた(私もそうかもしれないが)。

キービジュアルからして印象派メインのように思えたが、体感的に半分ぐらいは現代美術だった。私は現代美術が好きなので、好きな作家の作品を観れたり知らなかった作家を知れて、とても良かった。

体験型の展示(インスタレーション)もいくつかあり、そのうち二つは観られる時間が決められていた。特にオラファー・エリアソンの光を使ったインスタレーションは、不思議な体験ができておすすめ。

オラファー・エリアソン「黄色vs紫」

他に、私は知らないアーティストだったけれど、ペー・ホワイトの作品も会場内で一際印象的だった。

ペー・ホワイト「ぶら下がったかけら」

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現代美術の面白さについて少しだけ書いてみたい。

私の楽しみ方は「作り方を考える」というものだ。現代美術、特に彫刻作品(ダビデ像のようないわゆる彫刻に限らず、より広く「立体作品」を指す)は、往々にしてアクロバティックな作りをしている。言い方を変えれば、現代美術の彫刻は重力に対して逆らっていたり、あるいは重力という制約を逆手に取ることで新しい魅せ方をしていたりする。

例えば上の「ぶら下がったかけら」という作品では、空間内の一定の高さだけにカラフルな物体(かけら)が密集している。かけらは糸によって天井から吊るされているが、その密度や量のおかげか、「かけらが複数吊られている」というよりはむしろ「かけらが集合して浮いている」ように見える。

かけらの集合体の細やかな揺れに伴って、床面の影も動く。単純な仕掛けではあるが幻想的だ。さらに、本来は脇役に徹するべき糸も、キラキラと虹色に輝くような素材であるから蛇足に見えず美しい。

──ここまでくると気になるのは、その設置方法である。大量の糸をどのように吊っているのだろう?と、天井を見上げてみる。

するとこのように、パネル化されたフレームに糸の端が結びつけられていることがわかる。フレーム自体に色気はないのだが、あえて隠すのではなく見せてしまっている点に私は惹かれた。

このようにして作り方を考え始めると、延々と見続けられてしまう。作品そのものだけでなく、作り方(素材の選定、工法、設置方法など)を想像すること。それが私なりの、現代美術の楽しみ方だ。

現代美術の作品は、古典美術と違って「素っ気なく」見えるかもしれない。だから面白みに欠けるんだよね、という感覚はよくわかる。けれど実は、素っ気なく・さりげなく見える作品ほど作り方が練られている。頭の中にあるイメージを具体的な形に変換する過程は想像以上に難しいものだ。いかに「素っ気ない」風を装って、概念だけをストレートに伝えられるか──それが多くの現代美術の挑戦であり、だからこそ、作り方にかなりの幅がある。考え始めると本当に奥が深い。

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ちなみに、(現代美術に限らず)美術鑑賞をする際に自分に課している約束事がある。

1.「好き」「面白い」という感覚に忠実であること。
2.まず作品を観ること(作品名や作家名、説明文は後で読むこと)。
3.極力写真を撮らないこと。

1について。話題作や有名な芸術家であっても、自分が本能的に好きと思えないものは、遠慮なくスルーしている。このスタイルだと展示によってはすぐに観終わってしまい、もったいない気分になったりもする。しかし芸術で一番よろしくない感情は「難しい」だと私は思っている。専門家は別として、好きなものだけを見ればいいし、勉強したり無理に理解する必要はない。

2について。私はついつい説明文に目がいってしまうタイプなので、これを意識的に続けている。書かれた説明文はあくまで誰か(キュレーター)の主観である。芸術において大切なのは「自分がどう思うか」。名前や文章ばかり気にすると、自分の眼や心が濁ってしまう。特に現代美術のコンセプトやテーマは難しい(追体験しづらい)ので、あまり理解しようとしない方が得策だと思う。

3について。大切なのは「今ここで観て、今ここで考える」ことだと私は思っている。だから写真に撮るとしたら
・共有する
・記録する(素材、名前など)
のいずれかの場合だけにしている。好きだからこそ残したい、忘れたくない!と思って以前は写真をたくさん撮っていたけれど、写真フォルダを後から振り返ることは経験上ほとんどないし、写真で見ても何の感動も考えも沸かない。だったら画集やポストカードを買ったほうがよい……のではないだろうか。

というわけで今回もポストカードを何枚か買った。

情報量の多い日々に心がザラザラしてきたなぁと感じたら、美術館に行ったり、旅行に行ったり、あるいは一番簡単なのは、本を読んだり。そういう時間に私は癒される。



編集後記

もうちょっと簡単に言えば、「静か」とはすなわち「面白すぎない」ということかもしれない。あんまり面白い(刺激が強い)と、波にのまれる一方だ。もう少し自分で操縦したい。

同じようなことを以前本で読みました。ラッセル『幸福論』です。

あまりにも興奮にみちた生活は、心身を消耗させる生活である。そこでは、快楽の必須の部分と考えられるようになったスリルを得るために、絶えずより強い刺激が必要になる。多すぎる興奮に慣れっこになった人は、コショウを病的にほしがる人に似ている。そんな人は、ついには、ほかの人ならだれでもむせるほど多量のコショウでさえ味がわからなくなる。

退屈には、多すぎる興奮を避けることと切り離せない要素がある
。そして、多すぎる興奮は、健康をむしばむばかりでない、あらゆる種類の快楽に対する味覚をにぶらせ、深い全身的な満足をくすぐりで置き換え、英知を小利口さで、美をどぎつい驚きで置き換えてしまう。

私は、興奮に対する異議を極端に唱えるつもりはない。一定の量の興奮は健康によい。しかし、他のほとんどすべてのものと同じように、問題は分量である。少なすぎれば病的な渇望を生むかもしれないし、多すぎれば疲労を生むだろう。だから、退屈に耐える力をある程度持っていることは、幸福な生活にとって不可欠であり、若い人たちに教えるべき事柄の一つである。(P.68)

ラッセルの考えが私にはとてもピッタリとくるのだな。と、二年経った今も感じています。



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